“酒無しデー”に泡盛飲む~明け方まで記者と共に~

   

“酒無しデー”に泡盛飲む~明け方まで記者と共に~

〔2001年3月号のつづき〕
当間重剛さんが公職を退いて晩年沖縄赤十字社の常務をしていた頃には、ちょくちょくこの人を訪ねては、古酒談義に花を咲かせたり、人生の教えを乞うた。

awamori_yomoyama_28_urizun_tuchiya_saneyuki_touma_jyugou或る日「君、これを読め」と差し出された2冊の本は、中国の古典であった。家に持ち帰って開いて見てすぐに閉じた。

しばらく経ってからこの本は大人に返したのであるが、感想など読後感などはついぞ聞かれなかった。どうせこんなチンピラ野郎なんかに解るまい、と考えたのであろう。

こんなこともあった。松尾の琉球生命ビル(当時)の最上階に「アラスカ」とというレストランがあった。そこで泡盛のカクテルを飲ませている、という情報が入り早速取材に出かけた。

当時泡盛のカクテルを飲ませてくれる料飲店は皆無だった。試飲をしたついでに広告をお願いしたら2つ返事で30ドルの広告を出してくれた。

後日、沖縄ビル管理(株)に当間大人を訪ねたら、みんなの前で「オイ、お前アラスカから30ドルぶん取ったそうだなー」。

さすがの強心臓の私も返す言葉が無くちぢこまったものである。いい意味での私に対する毒舌であった。晩年、弟さんを亡くして少し気がすさんでいたような気もした。

話は前後するが、池宮城秀意といえば戦前戦後ずーっと新聞記者だった人間である。後に琉球新報の編集局長を経て社長になった人である。この人が小紙第59・60合併号に次のような玉稿を寄せている。

「当間重剛と酒で忘れられぬことは、戦争中の大詔奉たい日の酒宴である。12月8日は戦時中大詔奉たい日で酒無しデーということになっていた。その日は私たち新聞記者仲間が久茂地の歳の神の坂上にあった市長公舎に当間市長を囲んでの酒盛りの会に決まっていた。

酒無しデーだから、その日は那覇市長も公式の宴会がないことになっていて、当間大人も無抑をかこっているという私どもにも市長にも都合の良い日であった。

集まる仲間も城間得栄、瀬長亀次郎、故人の中村渠(詩人)、古波蔵保好、池宮城秀意が常連で私と中村渠の外は元市役所詰に記者仲間であった。当間市長とこの日は仕事を離れて若い記者達との放談会で肩の張らない集まりであった。

だんだんと月が重なり一筋縄ではいかぬ連中が集まり、酒無しデーに市長公舎に集まっているということはおだやかでない、と警察か特高警察が気付いたかどうかは明らかではなかったが、公舎の玄関で時々夜更けて物音がすることがあったが、当間大人は『12時は過ぎている、酒無しデーは去っているのだ。気にしない』、と平然として盃を傾けていた。

元判事で、弁護士先生『警察の連中、俺が酒飲んで何が悪いか』ということで、彼とその若い仲間は明更けで、1時、2時まで泡盛を汲んでいた。80歳近くになっても当間大人は泡盛を好んで飲んで豪放磊落、泡盛は終世彼の友であった。亡年78歳」

と記している。

池宮城秀意さんとは同じ本部町の出身の私は、那覇・近郊在住本部郷友会の氏が会長時代、副会長を務め、運動会や敬老会などの時には共に難儀した間柄でもあった。池宮城さんは新聞記者特有の気質にみなぎった人間だった。

昔、沖縄グランドキャッスルで泡盛業者を前にした挨拶で「泡盛業者はいつも自らは何もしないで、我々愛飲者に頼っている」とぶっ放し、泡盛業者を畏縮させたこともあった。

うりずんの土屋實幸も同席していたのだからそう遠い昔の話ではない。我が敬愛した毒舌で、舌鋒鋭かった池宮城さんもこの世には居ない。

したたかなまでに泡盛に愛情をそそいだ偉大なる先輩方が逝ったのはこの上なくさびしいものである。

2001年4月号掲載

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