過去の記事一覧
-
「朝日に映ゆる嘉津宇岳恩納の峰はほのぼのと堪ふる影も名護浦の松の縁のこきところ」で始まるわが母校名護高校の校歌を実に50年ぶりに高歌放吟(こうかほうぎん)した。1950年3月に卒業して今年で50年の歳月が流れている。去る…
-
〝憶良らはいまはまからん子泣くらん そのかの母もわを待つらんぞ″確かそのようにおぼえているのであるが…。ご存じ万葉歌人の山上憶良が詠じた歌である。遠い昔、我が名護高校の国語の教師だった下門龍栄先生に教わったのであるが、こ…
-
我が愛すべきA先輩の酒の上での失敗談である。小さいながら建築請負業を営んでいた先輩は酒を飲む機会が多かった。次のことは直接ご本人から聞いた実話である。今でこそ跡形もなく想像もできないであろうが、真喜比から安里に下ると高架…
-
さて、前号はあまり文章が硬すぎるとの読者からの指摘を受けたので、ここら辺で話をぐーんと落として酒飲みの失敗談を披露したい。余所さまの事を書く前に先ずは私自身を斬ってみよう。わが貧乏新聞社は沖縄ヘラルド新聞で創刊、沖縄朝日…
-
私が初めて泡盛を飲んだのが14歳だった、と前号で書いた。タバコを吸い始めたのもその頃であった。当時、アメリカ兵の一線部隊が引き揚げた跡のゴミ捨て場には、いろんな缶詰やら石けん類が埋まっていた。われら悪童仲間は鍬(くわ)で…
-
醸界飲料新聞18~20号からの抜粋記事ここに明治32年~明治41年までの10年間の琉球泡盛の島内需要高記録がある。これはペンネームいしがきたすく氏が明治42年2月14日付琉球新報から引用したもので、昭和47年9月5日付小…
-
琉球泡盛の変遷の一端を記しておきたい。
敗戦直後は多くの家庭で自家製の酒を醸していた。本部町字具志堅の新島のわが家でも造っていた。アメリカ軍のドラム缶を半分に打っ手切ったのがいわゆる〝蒸留機″だった。
原料は唐芋…
-
菅間誠之助という偉い人物がいた。過去形を使ったのはこの人が黄泉に旅立たれたからである。
出合いは今から29年も前だから沖縄がヤマトに復帰する2年前である。琉球泡盛の技術指導で来沖の時、那覇市の前島にあった南国ホテル…
-
琉球泡盛も去る大戦では1大被害者である。首里の酒屋(造り酒屋のことを沖縄ではそう呼んでいる)などにあった酒は、大戦時の〝友軍″や防衛隊、民間人などによって〝盗み酒″されたり、アメリカーの爆撃によって壊滅している。
…
-
私が「泡盛の元祖探究の旅」の第1歩をタイ王国に決めたのは、琉球歴史の大家・東恩納寛惇氏の著書『黎明期の海外交通史』の中の「泡盛雑考」の一文に触発されたからであった。その中で氏は小見出しで「泡盛はシャム酒なり」とあり「…
-
2025-9-17
沖縄県は、飲食店関係者を対象とした「琉球泡盛魅力発信キャンペーン」を令和7年9月から11月まで、東京…
おすすめ記事
-
泡盛検定協会(会長:古賀桃子/事務局:泡盛新聞)は、令和4年5月8日(日)より、泡盛検定3級合格に向…
-
泡盛新聞は、令和2年3月20日(金)、創刊50周年記念事業の一環として、台湾と沖縄を股にかけ活躍する…
-
沖縄には「もあい」という制度があります。
簡単に言ってしまえば、定期的に開催される飲み会のことです…
-
令和元年8月24日(土)、名護市真喜屋の水田にて、地元農家の指導の元、泡盛業界関係者が泡盛原料用長粒…
-
平成30年10月30日(火)、久米島の久米仙(久米島町、島袋正也社長)、瑞泉酒造(那覇市、佐久本学社…
ページ上部へ戻る
Copyright © 泡盛新聞 All rights reserved.