この玉稿は前号(2004年10月)でも触れたように昭和54年4月25日付の小紙第51号の4面に掲載されている同氏の記事である。今から26年も前の昔のことであるから、最早や、時効が成立しているであろうから同氏も寛容してくれると思う。
その同氏とは昭和49年7月から昭和50年7月まで沖縄国税事務所の第2代目主任鑑定官であった志垣邦雄さんである(沖縄国税事務所関税課調べ)。その彼との付き合いの中ではいろんな思い出がある。
あの頃、沖縄県泡盛同好会も発足間もなく、確か第3回例会の時だったと思うが、当時は那覇市久米町の琉球商工会議所2階ホールで開催したのであるが、志垣さんにお願いをして約15分くらいの泡盛講話をお願いした。
志垣さんは一生懸命造りについて話をしたのであったが、ものの5分も過ぎたであろう頃から会場内から盛んにヤジが飛んできた。「ヤミトーケー」と言う罵声である。君の言っている事は吾々はとっくに知っているから止めておけというのである。
しどろもどろしている志垣さんはすぐ横に立っている私に視線を投げ、どうしたものかという真ッ赤な顔である。私はさっと近寄って彼の耳にささやいた。「仕方ないさー志垣さん、彼たちは知ったかぶりをしているが、実は何も知ってはいませんが、酔っ払っているに過ぎませんよ。しかし、今晩は止めにしましようや」。
あの時のホッとした志垣さんの顔つきは今でも鮮明におぼえている。彼の「玉稿」にもあるように、私は春4月に熊本市清水町山室に新築したという彼のご自宅を訪問する約束を未だに果さずに今日に至っている。
首を長くして待っている彼の人情に誠にもって失礼している自分に恥入るばかりである。きっと彼は球磨川の清流で醸した球磨焼酎の年代ものと名物の馬刺しで小生を歓待したかったであろう。
いずれの日か健康である間に再会を果し、彼の人なっこい笑顔を見ながらクースを酌み交わしたいと考えている。
2004年11月号掲載