―備忘録―②―(3) (平成25年8月17日)

  • [公開・発行日] 2013/08/17
    [ 最終更新日 ] 2015/10/04
   

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泡盛の強烈な臭いを無くした菊之露の製品たち

創刊45周年を顧みて・・・
芸術家が絶賛した菊之露

小紙が創刊40周年を記念して発行した「泡盛よもやま話」に下地潔社長(当時)の話が収録されている。64~65頁。忘備録の第3話は殆どそれからの引用記事でまとめて見たい。「琉球泡盛が売れない時代、つまり沖縄県民から“臭い”“カライ”といやがられていた時代のことであるからふた昔以上も前の話である。その“臭い”の一因は当時は冷温設備が施されていなかった倉庫に積まれた原料米臭とも言われていた。

下地社長と平良恵修杜氏が研究

それを飲んでいて強烈であったのをおぼえている。その“クセ”を最初に無くしたのは菊之露酒造であった。業界は挙げてその製法に取り組むようになっていった。当時、東京からやって来る有名な作家や芸術家などは宮古へ行きこの泡盛を飲み絶賛した。県下の全泡盛を取り揃えて大繁昌している。安里の“うりずん”の土屋實幸おやじなどは今でも菊之露のその味をしっかりおぼえている。極端な言い方をすれば清酒のようなおだやかな香りである。・・・その“臭い”を除去できた画期的なことは、同社の下地潔社長と杜氏の平良恵修さんとの技術研究の成果である。

洋酒を注文した下地潔社長

このことは敗戦後の琉球泡盛の歴史に末長く刻み込まれることだと思う」と書いている。さて、記者は故下地潔さん(当時)とは飲酒の上でのエピソードはいろいろとあるが、そのひとつにこんなことがあった。

宮古島取材の折、菊之露酒造を午後5時頃に訪れた。今もそうだと思うが、就業時間は午後6時までだったが、下地社長は那覇から仲村さんが来たのだからと言って5時頃2人東仲宗根の市場の向かいの小さなサロンに行った。しかし店はまだ開いてない。潔社長が近くから電話を入れると、ほどなくして綺麗な宮古美人が汗を拭き吹き来たのがママさん。真夏の太陽はまだ沈まずカンカン照りだった。特に宮古・八重山の太陽は沖縄本島より近くから照りつけてくる。カウンターに2人座りいつものクセで酒棚を見るとうーん、ウイスキーがずらりと並び、わが泡盛は1本も無い。下地社長が一声「ママ、カティサークをハーフくれ」ン?社長!今ナンと言った?と私。「仕方ないさ仲村さん、泡盛は無いんだもの。これを飲み干してから別の所行こう」と下地社長が言った。「ハーフ?あんたとは飲まん、俺帰る」と私はカメラバックをかついで店を出て行った。泡盛メーカーがウイスキーを飲もう、バカな奴めが、と1人ブツブツひとり言をいいながら照りつける太陽を西に海岸の上の通り飲み屋街に行った。2、3軒はしご酒して宿に帰ったのが明け方だった。無論飲んだのは“菊之露”だけ。さあ困ったのは下地社長。間を置かず私の後を追って店を出て私を追っかけたそうだが、私は見つからない。八方手をつくして探したそうだが、どこにも居ない。翌日は石垣島へ行くべく空港に飛んで行ったが、菊之露酒造の工場には立ち寄らなかった。那覇で飲む度に下地潔社長は酔うと必ず此の話をして悔んでいた。「あの時、なんで市場の中のマチヤグヮー行って菊之露一本買ってこなかったのかなー」

ウイスキー飲む間税課長殿

こんな事もあった。前島の飲み屋街のさる2階のバーに下地社長と或る泡盛メーカーの3人で入った。と、其處には泡盛鑑評会の審査員や沖縄国税事務所間税課長等の先客があった。飲んでいるのがウイスキーである。アレ?昼間は泡盛の審査をして、夜はウイスキーの審査かよー、と私。私を見た鑑定官氏、急いでカウンターで菊之露の半透明ボトルの4合びんを手に取って、私のところへ近寄ってきた。にこにこ顔である。いざ一献という顔であった。熊本出身のこの男と私はよくウマが合って桜坂の小便横丁あたりを肩を組んで飲み歩く中である。

私はプイと席を立ってドアを開けて出て行った。後年此の男は小紙の寄稿文でこう書いている。「・・・遠来の友といえども、泡盛を飲まぬ人とは席を同じうせずか。仲村氏が熊本に来るという。私は今から首を長くして彼を待っている」と。下地社長とのエピソードは未だある。桜坂華やかなりし頃、彼と桜坂の一流バーに入った。

県の2番大将がウイスキー

泡盛わが県民にも未だ認知されない頃だが、その店には菊之露があるから仲村さん一緒に行って大いに宣伝してくれと。着席して菊之露があるのを2人は喜び合いグイグイ。しばらくするとメインテーブルに居る6、7人のグループの中に県庁の2番大将が居る。だいぶ賑わっているようだ。よく見ると、テーブルに置かれている酒はウイスキーである。チラチラ見る私を下地社長は見ている。私の気質を知る社長は「仲村さん、黙っていてよ、黙って」と盛んに私を制している。我慢の限界が来た。いきなり席を立ってぶった。「何たる事か、昼間は“島産品愛用、島産品愛用”と言いながら夜は此の体らくかよう」と叫びテーブルを叩き乍ら、「これで沖縄が救えると思うのか」と大声で叫んだ。と一団のグループは蜘蛛の子を散らすように消えた。翌朝は頭をかかえた。“意地を通せば窮屈だ、とかくこの世は住みにくい“我が愛すべき酒友下地潔社長とのエピソードはまだまだあるが病に倒れ平成15年6月15日この世を去った。享年73歳だった。病院へ見舞いに行った時「仲村さん病気だけにはなるなよ。」が私に対する最後の言葉であった。
平成25年8月17日掲載記事

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