備忘録 ③-(三)(平成25年12月21日)

  • [公開・発行日] 2013/12/21
    [ 最終更新日 ] 2016/05/24
   

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泡盛とともに佐久本政敦氏(故人) 平成16年1月1日享年

たまには泡盛を飲めよ -瑞泉酒造の佐久本政敦さん-

瑞泉酒造㈱の佐久本政敦(先代社長・故人)さんは筆者にとって忘れ難い人物の1人である。沖縄県酒造組合連合会の会長時代の泡盛業界は“瑞泉派”“瑞穂派”時代でコトある毎に意見衝突した。瑞穂酒造に行けば、仲村君、旗色はどうかと聞かれ、瑞泉酒造に取材で行ったら“征幸、イャーヤ、クヌミミカラチチァーニ、クヌミミカラヒンガシヨー(左の耳から聞いた話は右耳からさっと抜けさせなさい“と言われた。そもそもこうまで“敵視”する仲になった事実はここでは書かないが、各メーカーまで波及し、樋売り合戦ともなったものである。ラベルは両メーカーの各レッテルだが、中身は複数酒造場の泡盛が入っている訳だ。市場の小さなメーカーは喜んで納入するし、両雄の酒は売れゆき好調とくればどちらにとっても得な訳だ。それほど樋売業者達の酒質がよかったのである。ちょうど今の県酒協の在り方の大先輩だった言えよう。そういう状態が相当期間続いた。その内離島や中、北部の“無派中立者”達も琉球泡盛の先行きに曙光を見出し設備投資にカネを注ぎ込み増産態勢に入った。勿論両雄も増設を完成させ自社製造力をアップさせ、名実共に自社製品でまかなうようになったのである。これが琉球泡盛の敗戦後の第一番目の盛況期に入るのである。

筆者が沖縄県泡盛同好会なるものを旗揚げした頃、瑞泉酒造に行ったら、出て来た佐久本政敦社長は開口一番「セイコウ、君が泡盛同好会を作った為にダーワッターサケーウリランセー」と言われシュンとなった。側で聞いた武さん(前社長)が「ハーウンジョーヌーディンイミセーサー」とたしなめていたのも昨日の事のように思い出される。冒頭に触れたように政敦ウフヤッチーは頭からセイコウ泡盛ヌミヨーヤ-とは言わず、「タマニハヌミヨーヤー 」であった。「征幸、泡盛を飲めよ」とくれば私はカネが無いから毎日泡盛を飲んでいますよ、何だ今更」を言い返したのであろう。現在でも時として、此の偉大な泡盛製造業者佐久本政敦ウフヤッチーを回想する。実に寛大で包容力に丈た人物だった。しかし、一方で首里崎山の人らしく短気なところがあった。瑞泉酒造は文字通り泡盛発祥の地首里の酒にふさわしく敗戦後の那覇市ではその80%が“瑞泉”であった。筆者がよく通った国映館の斜め向かいに在った“おでん横丁”では度々瑞泉が品切れしていたが、その都度ママさんが電話で催促していた。程なく瑞泉の営業マンが一斗入のアメリカ水缶一杯に詰めた酒を届けていたものだ。

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昭和30年代の瑞泉酒造工場

歴史の風格ある首里酒 -仲瀬原には豊富な貯蔵

同社の南風原の仲瀬原の貯蔵施設内には政敦ご夫妻の銅像が建つ。親子2代の連合会長の要職を勤めた酒造会社は山川酒造の山川宗道、宗秀さん、久米仙酒造の平良正蔵、正論輝さん、そして佐久本政敦、武さん親子である。1998年11月1日発行の政敦ウフヤッチーの「泡盛とともに」を読むと戦前戦後の琉球泡盛の移行が解る。「瑞泉」名前の由来は首里城の瑞泉門に由来する。息子の武氏、稔氏の後、孫の学氏が社長に就任している。芳醇にしてまろやかな風味の瑞泉は全県下はおろかヤマトの各地や国外にも広く展開している歴史の風格ある泡盛である。

首里三ヶは水どころで植物も豊富だった

昔、首里の或る古老の話によると首里三ヶつまり鳥堀、赤田、崎山は水が豊富で稲などの農作物が豊かに栽培されていて静かな田園風景だったという。酒造りには絶対欠かせない冷やし水用の池も工場敷地内に2、3ヶ所あったという。基處からサンルーやジラーが桶をかついで水を汲んでいたそうだ。一説では王府のひざ元に酒造場を造らせたのは酒税が徴収しやすいからだという異説もある。

あんな高台に水が豊富だったといわれる証拠には現在でも城の真下側には井戸があり、水がある事である。

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歴史のある胴ラベルは昔から変わらない

平成25年12月21日 掲載記事

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