“泡盛臭”を最初に除去~菊之露酒造の下地潔社長~

   

琉球泡盛が売れない時代、つまり沖縄県民から“ 臭い”、“カライ”と嫌がられていた時代のことであるから、awamori_yomoyama_68_turn-off-the-smell_kikunotsuyu-syuzouふた昔以上も前の話である。

その“ 臭い”の一因は、当時は冷温設備が施されていなかった、倉庫に積まれた原料米臭とも言われていた。それは飲んでいて強烈であったのをおぼえている。その“クセ”を最初に無くして穏やか香りの泡盛にしたのは菊之露酒造が初めてであった。業界は挙げてその製法に取り組むようになっていった。

当時、東京からやって来た有名な作家や芸術家などは、沖縄本島の泡盛と違ったこの風味を絶賛した。県下の全泡盛を取り揃えて開店して30年余になる那覇の泡盛居酒屋のおやじなどは今でもあの「味」をしっかりと覚えている。

極端な言い方をすれば、清酒のような穏やかな香りである。泡盛臭、いわゆる米の原料臭は今日では殆んど無くなってきている、が、それでも県外からやって来て初めて口にする方々の中には“臭い”“キツイ”と顔をしかめる人もいる。

私はそういうお客さんには「これは情熱的な南国乙女のなさけの香りですよ」と説得している。年老いた琉球インディアンの精一杯の泡盛擁護である。

いや、これは単なる擁護論ではない。洋の東西を問わず酒に限らず、うまい物には臭いがあるものだ。菊之露酒造が適度にこの“臭い”を除去できた画期的なことは、同社の下地潔社長(故人)と名コンビを組んでいた名杜氏平良恵修さんとの日夜の技術研究の成果である。このことは敗戦後の琉球泡盛の歴史に末長く刻み込まれることだと私は思う。

話が堅過ぎてしまった。故下地潔さんとはいろんな飲酒上のエピソードがある。これも又昔の話だが、宮古島取材の折、菊之露酒造工場を訪ねた時には午後5時を過ぎていた。今でもそうだと思うが、午後6時までが就業時間だったが、折角那覇から仲村さんが来たのだから、と言って5時半頃2人して東仲宗根の市場向かいにあった小さなサロンに行った。

しかし店はまだ開いていなかった。潔さんが近くからママさんに電話を入れたらほどなくして綺麗な宮古美人がやって来た。カウンターの止まり木に二人は肩を並べて座った。

が、酒棚は見渡す限り輸入ウイスキーだけである。我が琉球泡盛どころか菊之露さえ1本もない。「仕方ないからウイスキーをハーフボトル飲んでから別の店に行こう」、「はあ?今社長なんと言った?」「だって泡盛無いんだから仕方ないじゃないか」。カメラバッグを肩にかけて「あんたとは飲まない」とひとこと言って私はその店を出た。外は午後6時を回ろうというのに真夏の太陽は脳天にじりじり照りつけてくる。

ハァもう居たたまれない暑さであった。今でもそう思うのだが、特に両先島地方の真夏の太陽は、沖縄本島の太陽よりは5メートルほど近くなるのではないだろうか。ま、これは冗談だがその晩は飲み屋街の安い店をハシゴして明け方に宿に辿り着いた思い出がある。

勿論菊之露を痛飲しての朝帰りだ。さぁ、気が気でないのは潔社長。つい軽はずみのひと言で折角那覇から出て来た相手はポイと出て行ってしまった。八方手を尽くし投宿して居そうな所に片っぱしから電話をかけるが、居ない。

それ以来、同氏と那覇、宮古や本土で飲む時には酔ってくると、必ずその話が出てきた。「何故あの時、近くのマチャグヮー行って菊之露を買って来なかったのか、自分の至らなさを後悔しているよ仲村さん」が口ぐせであった。しかし、その後も二人は会う度に飲み、情報交換をした。

まだある。何回目かの泡盛鑑評会の酒質審査のあったその晩、潔さんに誘われて宮古のもう1人の泡盛製造業者と3人ほろ酔い加減で、前島通りの2階にあった、とあるバーの扉を潔さんが引いて3人は中に入った。

と、目の前の光景に3人は自分の目を疑った。あれれれれ、ン?。

【2004年10月号に続く】

2004年9月号に掲載

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