備忘録③-(2)(平成25年12月21日)

  • [公開・発行日] 2013/12/21
    [ 最終更新日 ] 2015/09/17
   

皇太子殿下が賞味した古酒 -宮里酒造の古酒-

1975年7月沖縄国際海洋博覧会が本部町で開催された時に、沖縄謙酒造組合連合会では全泡盛メーカーに呼びかけて、自社の一番熟成したクースを出品させ連合会の3階ホールで出品メーカー全員が白衣で審査したことがあった。 その中から1番優れたクースを選ぶ訳だ。点数が多いメーカーの製品が当せん(勿論ラベルなし・番号を記入・無記名)することになった。フタを開てみたら1番うまいと折紙が付いたのは宮里酒造所(宮里武秀社長)のクース。その事を小紙は堂々と書いたのであるが、連合会に後日複数のメーカーからクレームが付いたことが記者の耳に入った。記者は頭にきた。「何?それのどこが悪いというのか、くやしかったらてめぇももっとうまいクースを造れ、それがメーカーの常識姿勢じゃないですかと言いなさいよ。第一それを選んだのはあなた達ではないですかと言えよ」と怒鳴ったのもつい昨日の事の様である。さて、いよいよ沖縄海洋博覧会が開幕したのであるが、時の総理大臣が三木武夫さんで皇太子殿下と美智子妃殿下ご夫妻をご案内役でご来島されたのであった。〔現天皇陛下ご夫妻〕。この世界一の琉球泡盛クース、実はこのご夫妻に賞味させるのが目的だったのである。

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これが皇太子殿下の賞味したクース

メーカーが審査で折紙付けた 宮里酒造の8年貯蔵古酒

1982年6月21日付けの小紙第67号に「秘蔵品拝見・宮里酒造の献上酒」横1段3本見出しで次のように紹介している。「去った沖縄国際海洋博覧会の時に御来島された皇太子御夫妻に献上された古酒が宮里酒造所(宮里武秀代表者・那覇紙字小禄645番地)にある。

5升壺入りの南蛮壺(写真)の中身は当時で8年貯蔵酒だったというから今では宝物の存在。海洋博覧会場では宮里さんと佐久本武瑞泉酒造㈱専務と他1人の3人が泡盛業界の代表として説明に当っている。佐久本武専務の話によると、皇太子殿下はストレートでご賞味され、美智子妃殿下はシークヮーサー割りのカクテルをご賞味されながら気軽な御会話を交わしておられたということだ。当の持ち主の宮里さんはこの酒を「家宝」として誰にも飲ませず、次ぎ足しも、分けもしないという。記者はヨダレを飲んだ」。と書いている。 この話には続きがある。それから相当間を置いて或る日取材で訪ねたらこの「宝物」相も変らず工場の仕込みタンクの横の土間でホコリを被ったまま置かれているのであった。「宮里さん、この壺は皇太子御夫妻が賞味された酒が入っている壺でしょう。これでは実に勿体ないからキレイに拭いて神棚を設けて其処に置いて下さいよ。そして壺の横に焼板に墨痕鮮やかに「此の古酒(クース)は第125代目現天皇陛下と美智子妃殿下が御賞味されたクースであります。沖縄広しといわれておりますが、天皇陛下が御賞味された泡盛は宮里酒造の古酒(クース)だけであります。私は琉球泡盛造り家でありますが、こんなすばらしい名誉はありません」と書いてこの壺にしゅろ縄で掛けて下さい、と進言した。「ヤガヤー、仲村君、今の天皇陛下は何代目なのか、君はしっているか?」と僕に聞いたものだからハイ125代目ですと即答したものだから、疑い深い宮里さん、「君、ほんとうか間違いないか」ときたものだからダーあんたの電話を貸してください、と私は104に電話番号を聞いて宮内庁の総務課に電話を入れると「間違いなく第125代です」ときた。戦前の教育で軍国主義をたたき込まれている自分にとっては思わぬ所で役に立ったものである。あの昭和天皇が第124代目である。宮里さんは「大したものだ新聞記者というものは、それじゃ君で名文を書いて来てくれ」ときた。しかし迷文書くのは訳ないですが、書体は今県の農事試験場長をして居られる書家、あの県知事室に飾られている“万国津梁”を達筆で書かれた偉い人間ですよ。書道の達人なんだからそれ相応のカネは支払わないとならないですよ。と念を押すと、「それは解っている」。と宮里さん。その後何度も同酒造所を訪ねたのであるがその都度まだだという返事だった。筆者もそのうちやるだろうと傍観の態で居た。或る日訪ねた時に工場前の広場の小舎の中に一石入の壺が3個入っているのを見せられた。筆者の目には東南アジア系だと見えた。この壺にあの皇太子御夫妻が賞味したクースを入れるという。じゃあの空の壺は僕にゆずってくださいよ、と言うと、宮里さんは君に上げるよ、と簡単に言っていた。僕は内心喜んだ。しかし、この男の前では喜べない。この壺は瑞穂酒造の先々代玉那覇有義さんが台湾から大量に買い込んできた中国南蛮である。

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宮里酒造の工場全景

玉那覇さんはこの壺に瑞穂の古酒を詰め“復帰記念酒”として大量に売り出した。当時泡盛業界には「瑞泉派」と「瑞穂派」があり、宮里武秀さんは「瑞穂派」の親分玉那覇有義さんの懐刀を言われていた。「瑞穂」と付けたのは宮里さんの知恵である。此の2人はよくウマが合った。話は横道にそれたが、この後この壺どこにどうなったのか見当たらないのだ。

現社長の宮里徹さんに聞いても知らないと言う。ハテサテ一体私が非常に欲しがっていたこの壺どこに雲隠れしたのか?当の本人宮里武秀さんも去る平成18年4月28日三途の川を渡ってしまった。武秀さーん、あの壺どこにあるんですか?・・・。敗戦直後に建てた平屋の宮里酒造所。狭い工場内に業界先んじてモロミタンクをステンレスに変えて、暑苦しい中でモロミを熟成させ、小さな蒸留機で泡盛を造り、オール手作業で箱詰め、ラベル張りをする宮里酒造工場唯一のラベル“春雨”は独特のうまさを誇る。

県内の居酒屋でも品不足 春雨はヤマトでも大人気

県内の居酒屋でもめったに手に入らない逸品だ。特にヤマトでの人気は抜群だ。神奈川県の総合酒類問屋株式会社掛田商店の創業者掛田勝朗氏ご夫妻は味覚に優れた方々だが、この「春雨」を高く評価している。ヤマトへの泡盛販売の大きな懸け橋だ。そして現社長の徹氏は謙虚で一途な人間である。

平成25年12月21日掲載記事

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