カテゴリー:コラム
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増設工事中だった合資会社咲元酒造(社長:佐久本 政良)は去る12月未完了、その完成披露宴が1月4日午後5時から同工場内で催された。当日は新正明けのあわただしい中にもかかわらず、酒造関係者およそ50余名が集り、同社の発展を…
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今、全面的な傾向として消費人口の流出がああわけですが、お隣りの鹿児島、熊本県あたりをみても消費人口が減っており、したがって焼酎の県外移出に力合入れつつあり、沖縄も復帰後はどうしても県外に出さなければ行きづまると思う。特に…
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どうも話が柔かくなりすぎたが、ここらでグッと男っぽい話を1つ。筆者の昔からの友人にGという男がいる。酒飲みで、喧嘩っ早いが、義理人情に厚く、「人生劇場」の青成瓢吉みたいな男である。話は今から17~18年前にさかのぼる。当…
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若き日の思い出といえば、まだこんなのがある。今は酒がよくなったせいか、あまり変った酒癖のもち主はみかけなくなったが、昔は筆者のまわりだけでもずいぶんいろんなクセをもった連中がいた。農連市場前の屋台店がまだ健在の頃、当時の…
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小話が出てきたついでに、あと2つ3つ、話のタネまでに紹介しておこう。ヤボな質問酒場でポールがボブに「ゆうべ、かねて懇意だった若い後家さんにダイヤの飾りがある時計をプレゼントしたら、すぐその晩から動きはじめたよ」「時計がか…
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新年にあたり、泡盛業界の皆様に一言ごあいさつ申し上げる機会を得ましたことを光栄に思います。1971年は、本土復帰を真近に控えて社会経済のあらゆる面で今後の沖縄の方向を決定づける最も大切な年であります。特に、経済面におきま…
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あわもりやも10年ぐらいの年季が入ると味が出てくるのか、様々な人間模様が生まれるし、店と客に微妙な関係が生まれる。関西の泡盛屋には、それぞれの屋号の元に系統化され、それぞれ首里の醸造元から移入されていた。神戸港から直接京…
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“鯨は日本海や東支那海のようなちっぽけな内海では泳がず太平洋で遊水するものだ”これはは或る政治家が稲嶺一郎氏を評した言葉である。又或るジャーナリストは氏を評して“いぶし銀のような底光りのする男”と語っていたが、両者共ずば…
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戦争中のアルコール不足と砂糖不足は極端であった。「山寺の和尚さん」ではないが、「酒はのみたし、酒はなし」であった。貴重な配給券を手に、長い行列をして酒を買った思い出のある人々は案外多いのではなかろうか。防空壕の中で、食べ…
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仲村さんが“醸界飲料新聞”をだして1年が過ぎた。何か書いてくれと言われたものの書くのが苦手なボクには、一緒にオナゴのいない?おでん屋で飲みながら語り合うのが、唯一の楽しみであり、得意かもしれない。大・小様々の業界新聞が巷…
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