同級生がまた1人亡くなった。83歳の人生であった。つい先頃には渡久地政幸君が病没したばかり。 同級生の中では白髪1本もなく万年青年だと言われた男、外間政憲君が病には打ち勝てず10月27日午前4時43分に逝ってしまった。諸行無常、残念である。筆者を含めて皆本部町の出身である。
1950年旧制三中の流れを汲む名護高校の5期生である。敗戦直後の学舎はみじめであった。 三中鉄血隊の生き残りや予科練の生き残り達が復学した。 道で会うと挙手の敬礼だった。ひもじくて勉強どころではなかった。卒業と同時に外間君は開南の小さなトタン屋根で印刷を始めた従業員は彼と2人。 足踏みのパッタン印刷で石版だった。瑞泉酒造のラベル印刷が昨日の事の様に鮮烈に印象深い。小紙の印刷も以前からずっと光文堂印刷所(現光文堂コミュニケーション㈱)だ。此の友には公私共にだいぶお世話になった。
話は前後するが、こんな事もあった。夏休みには本部町大嘉陽の彼の家で泊まり込みで遊び、夜はすぐ近くの八重岳の頂上にあるアメリカ軍の電波探知機施設入口にカービン銃を肩にしたアメリカーが立っていたが、2人は英語辞典を脇にそのアメリカーから單語を夜おそくまで習ったものである。 父は色白、野武士然をした方だった。 4年生の最上級生になってからは2人とも相当暴れ廻ったものである。彼の事業も軌道に乗り4つの会社を経営、現在は長男・二男・三男がしっかり会社を支えている。お互いに第二の人生を楽しもうと話し合ったものだが、残念だよ・・・。
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