去る6月1日、久しぶりに宮古島へ取材に出かけた。夕方の西里通りの商店街を通り、懐かしい思い出にふけりながら裁判所前の通りに出て、ふと足を止めた。左側の道路ぞいにある小さな居酒屋のメニューにこうあるのを見たからである。
「泡盛一升びん水割り1,000円」。解せない。しばし首をかしげてみるがどう考えてみても居酒屋で一升びん1,000円は安すぎる。のれんをくぐって若い女の子にたずねてみた。新米らしい女の子の答えに納得しかねながら外に出た。
翌日、空港までのタクシーの運転手との雑談に答えはあった。つまり30度の泡盛を水で10度緩まで落とすと三升になる計算だ。一升びんの水割りの泡盛は30度に戻すと三合三勺強、約四合に近い量になるわけだ。
その運転手の説明によると、宮古では泡盛は従で料理が主だそうで、料理を食べてもらうために泡盛は存在するので、これから儲かろうとは考えでいないということだ。
ン?泡盛君、これでよろしいのか、と筆者みたいな料理なし飲んべぇ!?にはもときびしい思いがした。さぞ私みたいな料理なし脂味噌人間が入ろうものなら塩をぶっかけられるであろう。それにしても一升び水割1,000円は安いなぁ。
さて、今度の宮古島取材は弔(とむらい)の旅でもあった。平成9年(1997年)8月31日に沖之光酒造合資会社の古謝為吉さんが亡くなった時、私は体調を崩して会葬に行けなかった。為吉おやじとの付き合いは長かった。
もともとは嘉手納から移住してきて、宮古島で泡盛製造業と副業で財を成した方で、物静かで、泰然と構えた方であった。取材で空港から一番にエ場を訪ねると、事務所で机を前にして一人静かに煙草をくゆらしていた。
小1時間泡盛の近況や市場の動きなどを語り合うのが常であった。帰り際に為吉おやじはこう言った。「広告を載せなさい。あまり大きくはできないけど。」那覇に出てこられる時にもよく一緒に飲み歩いた仲であった。
那覇での話・・・、
2人して或る居酒屋の暖簾(のれん)をくぐった時、おやじはすぐさまそこの酒棚に目をやり、「この店にはうちの“沖之光”は置いていないから別の店に行こう仲村くん」と言って、1人先にさっさとと出て行ってしまった。私も後を追って別の居酒屋を案内したのであるが、腑に落ちないのは私の方であった。
「“沖之光”を置いていない店だからこそ、あなたがマスターに頭を下げてでぜひ置かせ
て下さいとお願いすべきが筋ではないですか?」。私もサーフーフー(いささか酔っている)している勢いで食ってかかったこともあった。
おやじも素直にに非をわびていたのが印象深く残っている。2人とも若かった。亡くなるまで大好きだった煙草をくゆらし、晩酌を楽しんでいたという。
眠るように正に極楽往生だった、と現社長の満(みつる)さん(3男で51歳)、妻綾子さ
ん(51歳)は話していた。怫前に線香を手向けると、在りし日の為吉おやじのやさしい遺影が「仲村君、泡盛はこれからだよ、まだまだしっかりと頼むよ」と語りりかけていた。
享年85歳。平良市字西里734バンチにある沖之光酒造合資会社は満社長が平成6年(1994年)に引き継ぎ、従業員8人の小規模工場だが、長期貯蔵熟成酒の草分けで品質の優れた一般酒でも辞判が高い泡盛メーカーだ。
・・・同じく平良市字西里290番地に在る菊之露酒造株式会社(下地博社長)は、泡盛業界で常時売り上げ数量で1位、2位を競う、いうなれば大手企業である。そこの先代社長だった下地潔さんが平成15年(2003年)6月16日に病没した。
この時私は左足の付け根からすねまで激痛が続いて歩くこともできない重体の身となっていた。今すぐに宮古島に飛んで行きたかったが、所詮どうにもならなかった。下地潔さんのことは次号で書くことにする。
【2004年9月号に続く】
2004年7月号掲載