千鳥の鳴き声を肴に独酌 ~おみやげ、見ぬまま次女逝く~

   

与那国の「花酒」が復活したのは復帰の年である。沖縄国税事務所ができて赴任して来た2代目所長だった佐藤東男さんの尽力に負うところ大である。各所長だったこの人は、着任早々先島の離島をサバニで渡り泡盛製造工場を視察したことでも有名だ。 1999_12_awamoriyomoyama_yonaguni_chidori

話を27年前に戻そう。入福旅館で夕飯を済ますと、近くの雑貨店で633㎖の泡盛を買って1人で丘に登り、草原に横になってラッパ飲みをしながら星空を仰いだ。すると、なんた浜から千鳥の鳴く声が聞こえてきた。カラジャキ(肴なし)は腹に沁みるが、心に響く肴となった。

昔、琉球新報・毎日新聞の記者だった宮良高夫が作詞し、宮良長包が作曲した「なんた浜」はあまりにも有名だ。筆者はこの歌がとても好きで酔うと口ずさむ。与那国島の自然に溶け込むのどかな人々の人情と包容力をもつ名歌だ。が、そのなんた浜の白浜も面影も今では見られない。

後年、浦添市宮城(通称パイプライン通り)にある泡盛居酒屋「ゆまんぎ」で飲みながら、大城国昌マスターに与那国の長浜酒屋の靜一郎さんのことを話したら、なんと、自分の母の父親であるという。世の中せまい。泡盛が醸す因縁とでも言えようか。その孫が24前から沖縄の偉大な文化産業泡盛を受け継いできているのである。

昨年12月にはさらに宜野湾市の嘉数中学校向いに回転寿司屋を開業し、そこでも一生懸命に泡盛を提供しているというのだ。 さて、いよいよ与那国島を離れる時「稲穂」「どなん」「南泉」を各々2本づつわら縄でしばって空港までテクテク歩くことにした。結構遠い距離を6本束ねて担いでいるのだから大変な過重労働であった。

程なく同行の久留比君が、「若いから」、と快く空港まで担いでくれた。しかし、苦痛で顔がゆがんでいるのが傍目にも痛々しかったが、彼の好意に甘えた。 この6本も今は私の酒棚の1番上のほうで涼しい顔で泰然としている。後日、そのお礼にとわが家に招いたところ4人も伴ってきたのには戸惑った。

一泊した翌朝、貧乏なわが家の女房の顔はいまだにそのままである。大阪からの彼のはがきには府の衛生課に就職しました、とあった。「きっとおみやげを買って帰るからね」と自分に言い聞かせて旅立った与那国島取材からのおみやげは、6本の泡盛だけであった。父の帰りを今か今かと待っていた小学校4年生だった次女由実は、一昨年急性肺炎で37歳でこの世を去った。

1999年12月号掲載  

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