与那国よい島情の島よ~情深き人 久部良勇吉さん~

   

こんな小さな島ではあるが、与那国島で太平洋と東支那海では波は静かな所と荒い所に分かれていて、太平洋側は荒々しい。awamori_yomoyama_85_yonaguni_kubura-yukichi-story反面、東支那海側はそれこそ穏やかである。小さな島とはいえトゥングダー(田んぼ)、クブラバリ、それに最近脚光を浴びている海中遺跡等々見る所は多い。

昔、人減らしのために老人や農業の役に立たない人々が鐘を合図にこの田んぼにたどり着けない者を撲殺、妊婦が無事飛び越せなく落ち逝く者など、悲しい物語りなどの言い伝えもある。

私の今回の取材目的は久部良勇吉さんの酒屋であった。赤瓦ぶきの大きな家に古武士然とした風貌で勇吉さんは居た。「泡盛のラベルの一覧表作りで25ドルづつ各メーカーにお願いして廻っているのですが」、と来意を告げると・・・。

「かじき漁で有名な与那国でありながら、石垣や本島のほうが安く、品物は何でも高い。で、以前は沖縄本島や石垣島から船で泡盛は運んでいたー」。

勇吉さんのなげき節はまだまだ続いた。なんでも船に積んで来ると、船中で乗客が盗み酒で飲んでしまい、半分は減ってしまったというのだ。ドゥナントゥーはたまったものではない。卸元の勇吉さんたちは力を合わせて協同で泡盛を造ったのである。氏や他の者たちも各々造り始めた。こういう状態ではラベル代どころではない。“なげき”を聞くだけ聞いて帰った。

翌朝、宿の「入福旅館」に若い女性が訪ねて来た。それも20ドルの現金を持参してであった。聞くと酒屋の書記をしていて、勇吉さんの使いで、25ドルを20ドルに負けて欲しいと言っている。涙が出るほど嬉しかった。彼女はこれから与那国町役場に出勤するのだという。

律儀だった勇吉さんももうこの世にはいない。まだ印刷もできていないのに前金を下さるとは有難いことこの上なかった。30余年も昔のことである。あれから何年か経ってから出来上がったラベル一覧表を持参して仏前に供え線香を上げた。

今では(名)崎元酒造所となっているが、昔の酒屋はそうではなかった。隔世の感ひしひしといったところである。与那国には海中遺跡もあれば“立ち神岩”もある。すさまじい太さの“男根”がきりっと立っている。宮良古田夫作詞、宮良長方作曲の与那国小唄にいう。

与那国小唄

エラブふもとの 水田の稲は 島の乙女の情にほれて
年にお米が 年にお米が二度取れる サノサッサ
与那国よい島情島~。

 

それにしても縁は不思議なもので、昔久部良港の近くにあった“南泉”の長浜酒屋の親父は自分の叔父貴だったという居酒屋ゆまんぎの大城マスター。浦添市の通称パイプライン通りで泡盛居酒屋を店開きしてもう長い。

那覇市安里に全県下の泡盛を集めて開業した琉球料理と泡盛の店を本格的に創業した“うりずん”はもう30余年にもなっている。

そこに次ぐ本格的な泡盛専門店である。この男もうりずんの土屋マスター同様、仲々の商売熱心である。那覇の新都心おもろまちに回転すし屋を、宜野湾市にも同様の店を開き、それぞれ大繁盛している。いずれも家族同伴の客筋が多い。

第三店舗が最近店開きしている。南風原大通りに面した“ゆまんぎ”南風原店だ。ここは沖縄県印刷団地のすぐ近くにあって、店はサラリーマン族も多く昼食から店開きしている。ここは実弟が取り仕切っているが、他の店もみんな大城マスターの長男や次男が一切切り盛りしている。

マスターはまだまだ若くて健康そのものだ。これから更に手広く店を開き、県産のオリオンビール、大城マスター自慢のわが琉球泡盛を世界に広めていくであろう。それがまた、いうなれば大城マスターの使命でもあろう。

ソレサッサ ソレサッサ
与那国よい島唄の島
サノサッサ~。

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