小誌は創刊号から第7号で1周年を迎えている。その1周年記念号に「琉球泡盛今と昔」という大見出しで座談会を開いている。
出席者は石川逢篤(元泡盛製造業者=故人)、佐久本政良(咲元酒造合資会社先代社長=故人)、花城清用(元泡盛製造業者兼琉球新報記者=故人)、新里肇三(琉球泡盛産業株式会社当時専務=現(合)新里酒造社長=故人)の各氏である。 司会は浜元朝起琉球泡盛産業㈱当時総務部長。
第八号から題字は醸界飲料新聞に変えている。その座談会によると、戦前の泡盛の生産高は三万五千石~四万石。 内、一万八千石が東京、大阪を中心に移出されている。大正末期から昭和二年~五年にかけて泡盛も大恐慌時代に入り、その時代に三十軒位が倒産に追い込まれている。それが昭和の十年頃から十一年にかけて琉球泡盛はようやく全盛期時代へ向かうのであるが、そこへ戦争の勃発である。
もしもあのいまわしい人類の不幸がなかったなら、われわれは今日百年余りのクースを心豊かにして賞味できたであろう。 返すがえすも残念なことであり悲しい。 琉球泡盛もまた去る大戦では一大被害者である。壊滅した筈の琉球泡盛だが、ここに奇跡的にも生き残ったクースがあった。那覇市首里赤田町にある(有)識名酒造が現在保有する百年余の壷入りクースである。
識名一家は去る大戦時、沖縄県の北部に非難を余儀なくされた時、工場脇に三本のクース壷を地中深く埋めた。その一本が現在も脈々と生き続けているのである。 私は此の識名酒造の至宝と三回対面し、二度だけ味わうことができた幸せ者である。開封した瞬間、部屋いっぱいに広がるあの馥郁たる香りに圧倒された。 味は何故か最高級の洋酒に近く言葉では表現できかねる。度数も落ちてない。飲み干したグラスにはいつまでも香りの余韻が漂う。
琉球泡盛のクースはかつて尚順男爵の松山御殿には何百年クースがあった、と山里永吉さん(故人)が語っていた。ひるがえって現在、市場には十年、十五年、二十年、二十五年クースが出るようになった。
世界に類例がないわが琉球泡盛の貯蔵法は先人の偉大なる知恵の産物である。 王宮文化が昇華したわが琉球泡盛の歴史は古く、六百年にもなる。
今宵、その技法の来歴を肴に飲み交わすも良し。クースの、うまい飲み方云々で飲むも又良し。
が、ただひとつだけ忘れて欲しくない事は酒が大先輩であり、人間様が後輩である、ということである。
(つづく)
1999年3月号掲載