過去の記事一覧
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当時のタイ国行きは那覇国際空港からパンナム航空で台北へ、キャセイ航空で香港に乗り継ぎそして日本航空でバンコクへ着くコースであった。香港を飛び立って約1時間後、高度1万メートル、時速950kmの機内アナウンスが流れた。…
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沖縄県泡盛同好会が提案し実現した「泡盛の元祖探究の旅」の第1回タイ国訪問の旅は、昭和53年5月10日~14日までの4泊5日の日程で実現した。一行20人の中には泡盛メーカー、マスコミ、製造技術者、流通と多士済済だった。…
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泡盛愛飲者にはすでにご存じでありましょうが、今から30年前の1969年に東恩納寛惇博学者の『黎明期の海外交通史』が再版されている。その中に「泡盛雑考」という項がある。泡盛という名稱(めいしょう)について同氏は「『アワ…
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与那国の「花酒」が復活したのは復帰の年である。沖縄国税事務所ができて赴任して来た2代目所長だった佐藤東男さんの尽力に負うところ大である。各所長だったこの人は、着任早々先島の離島をサバニで渡り泡盛製造工場を視察したことでも…
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前号で、26年前と書いたが27年前に訂正する。敗戦直後、与那国島は台湾との密貿易が盛んな頃は人口が5000人を越えた。それが27年前に私が行った時には2986人になっていた。 「泡盛1升の代金が1人前の男の日給に相当した…
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今から26年前、初めて与那国島へ泡盛の取材に行った。国産のYS11機が就航間もない頃だった。高い運賃をどう工面したのか今もって解らない。11歳の次女由実と妻の2人に那覇空港から見送られ旅立った。飛び立って遥かなるまで2人…
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敗戦直後の1946~7年頃の話であるから半世紀以上前の、随分と昔の事である。 その頃筆者の1番上の兄は田井等高等学校(現名護高校)本部分校の英語の教師だった。或る夏の日曜日、兄の先輩格の文学教師が訪ねて来た。同じ本部町出…
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小紙が去る5月で創刊30年を迎えた。紆余曲折の30年であった。創刊時は65の泡盛製造工場があった。その間に本島北部だけでも6場が廃業に追い込まれている。県下では実に19場と覚えている。その創業者たちの悲壮な顔が瞼に浮かぶ…
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「沖縄の酒は、阿波根朝松先生の『沖縄文化の歴史』によれば既に1300年前からつくられていたようである。しかし当時の酒は製造法が現在の泡盛とは全く異なっており、本土の清酒の先祖ともいうべき濁酒(どぶろく)に似たもので、ウン…
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私たちの年代が青春時代から今日まで泡盛を愛飲し続けてきているのは、何もそれがうまかったからではない。ただ1点、カネがなかったからである。輸入ウイスキーの全盛時代のあの頃、われら泡盛人種はすごく蔑視されたものである。 今の…
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2025-9-17
沖縄県は、飲食店関係者を対象とした「琉球泡盛魅力発信キャンペーン」を令和7年9月から11月まで、東京…
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泡盛検定協会(会長:古賀桃子/事務局:泡盛新聞)は、令和4年5月8日(日)より、泡盛検定3級合格に向…
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泡盛新聞は、令和2年3月20日(金)、創刊50周年記念事業の一環として、台湾と沖縄を股にかけ活躍する…
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沖縄には「もあい」という制度があります。
簡単に言ってしまえば、定期的に開催される飲み会のことです…
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令和元年8月24日(土)、名護市真喜屋の水田にて、地元農家の指導の元、泡盛業界関係者が泡盛原料用長粒…
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平成30年10月30日(火)、久米島の久米仙(久米島町、島袋正也社長)、瑞泉酒造(那覇市、佐久本学社…
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