創刊45周年を迎えて・・・(平成25年8月17日)

  • [公開・発行日] 2013/08/17
    [ 最終更新日 ] 2015/10/03
   

西村 邦彦さん
インタビューその②(池間記者)

記念インタビューの二番手は、泡盛販売の沖縄サンドリンク社長西村邦彦氏。西村社長に、『醸界飲料新聞』と仲村征幸さんへの評価を伺った。(聞き手・池間記者)

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西村邦彦さん

はじめに西村社長の経歴を

「1943年石垣市生まれ。1966年東京農大農芸化学科卒。繁多川の琉球酒造入社。10年そこの研究室にいて、瑞穂酒造に転職。9年いました。そこから沖縄工業商事に移り、そして沖縄サンドリンクを立ち上げて独立しました」

初期の仲村さんの思い出は

「瑞穂酒造に入った時、仲村さんがたまたま取材を兼ねて、広告取りにきたときに初めて出会った。それから“夜の時間を空けろ”と仲村の親父に言われ、酒を飲むことになった。そして、さんざん泡盛が何たるやかを叩き込まれた。“何で泡盛をやっているんだ”という話から始まって、まだスタンスを持たないときに、仲村の親父が持っている泡盛への思いをさんざん叩き込まれた。その時に一番忘れられないのは“お前達メーカーは県民の付託を受けて泡盛を造らせてもらっているんだよ。そのスタンスを忘れるな”強烈なパンチを浴びた。それまで、僕らはビジネスとしか思っていなかったから。親父との親交が始まって“お前、泡盛同好会へ入れ”ということになった」

琉球酒造のころは新聞を知らなかった?

「そうですね。そんな新聞があることも知らなかった。僕ら研究室の人間は外部との接触がないものだから。瑞穂に来てからですね。瑞穂酒造はキリンビールの特約店もやっていて、親父が新聞で“泡盛業者が県外のビールを売るとはなにごとか!”と瑞穂の先々代玉那覇有義さんとやりあった後らしい。すごいやりとりだったらしい。有義さんといえば、琉球酒造にいたとき、有義さんに呼ばれて“一緒にやらないか”といわれたことがあった。食事しながら声をかけてもらった。工場を見せてもらったが、あの時の感覚は僕らが立ち入る場所ではない、との感覚でしたね」

でも、瑞穂へ移ったのは?

「琉球酒造は株式会社で、社長は大城鎌吉さん。佐久本尚哉専務がいた。糖蜜からアルコール、お酒を造っていた。連続蒸留式の方法で。「新世紀」という焼酎を造っていた。ニッカウイスキーに原料アルコールを買ってもらっていた。日本復帰が決まって那覇市に公害対策準備室ができた。当時、琉球酒造の廃液は、泊港まで流れていた。繁多川からの工場からパイプで大道の練兵橋までつなぎ、そこから川へ垂れ流していた。それが泊港まで流れ行く。公害がなかったころはそれで済まされたが、廃液は水質問題に引っかかるから対策を考えることになった。それから廃液を工場に貯めて、業者がバキュームカーで汲み取りどこかへ捨てに行く。そのうち、水質汚染、大気汚染、煤塵を含め、捨てるのが難しくなる。辞めるきっかけになった。連続蒸留していたのは4社あった。安謝川をはさんで、那覇市に琉球洋酒かあり、両方から廃液を捨てていた」

瑞穂へ転職したのは、いつですか?

「復帰の翌年ですね」

泡盛の女王について話を聞かせてください

「初回は大変だった。大きな思い出。私も呼びかけ人となった。RBCに何社か集まってもらったが、誰も手を挙げない。泡盛の女王を選んで泡盛をPRしようというのに、泡盛メーカーがやろうとしない。募集が始まろうとするのになかなかスポンサーが決まらない。それで、久米島の久米仙、私(瑞穂酒造)、多良川、菊之露、瑞泉の5社がメインになろうかと。5社だったと思う。あの頃、沖縄の産業まつりが元気だった。宮城弘岩さんが来たときで、「沖縄発本土行き」というタイトル。会場には泡盛の出店もたくさん出ていた。“泡盛の女王は5社にしか使わさない。それでいいか”と提案した。“そりゃ困る。みんなで金を出そう”とまとまってメイン5社のほか他は特別協賛となった。3日前に決まりました。初代から3代目まで瑞穂で泡盛のレクチャーをした。酒造組合連合会が主催するようになったのは、4年経ってからです。主催は酒造組合連合会で、泡盛同好会は主唱ということになった。審査員の1人は泡盛同好会の会長。泡盛の女王については、仲村さんと平田さん(故人・久米島新聞)が一生懸命でした。酒の業界では首里物産の宇根底さんが協力した」

『醸界飲料新聞』の役割について

「仲村の親父の新聞は業界からヒンスウムン(貧乏人)扱いされた。いじめられた話も聞いた。瑞穂にいて担当しているときは社長に相談して1回30万円ずっと出していた。45周年を迎えるが、醸造界のために、たくさんの叱咤激励を新聞の中でやってこられた。まさにその通りである。現実にいろんな話が出ている。悪口は言わずに常に激励する側にいる。新聞で、泡盛業界を常に激励するスタンスはすごいな、と思う。最近、紙面で“備忘録”という企画記事で故人の業績などを紹介しているが、長い間、出している新聞だからこそ出来ることです。2代目、3代目にとって貴重な歴史資料になる。親父が生きている間書き漏らすことがないように書いてほしい。単に公式の文書は残っても、業界の裏話や人脈も含めて記録がないから親父が元気なうちに書き残してほしい」

45年を迎えて、仲村さんがやるべきことは?

「仲村の親父がやることは決まっている。最近、残念なことに少し耳が遠くなって取材が厳しくなっているけど、それでも思い出せる範囲でいいから全部書き残して欲しい。最近うちの事務所へ来て“復帰40年になるが、ついに泡盛業界には1社も企業が生まれなかった”と言う。企業でなく家業でしかない。経営陣はみんなファミリー。規模は大きくなったが、外部資本を導入するとか、一般的な企業ではなく大きくてもファミリー企業」「親父からはずいぶん薫陶を受けた。自分で開業し、独立したとき、思うように事業が展開できなくて落ち込んだことがある。居酒屋うりずんの20周年記念誌だったか、『100年古酒(くーす)を夢見て』というタイトルで親父と土屋實幸氏が対談している。この記事を見てやる気が出ました。県外出荷に力を入れることにした。生意気だけど、“おれがやらんといかん”と。瑞穂にいたときも県外のことは話していたし、問屋回りもした。向こうの状況は分かっていた。

書き漏れない位い書き残せ

泡盛を正確に伝える作業がやらないといかん。親父は“ずいぶん世話になった”というけれど、逆なんですね。私の方がずいぶんお世話になった。生きている間、書き漏れがないくらい書いて欲しい」

平成25年8月17日掲載記事

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