敗戦後のわが沖縄に外から最初に入ってきたビールは確かキリンだった。清酒は月桂冠でウイスキーはVOだったと憶えている。勿論あの頃にはわがオリオンビールは未だ誕生していなかった。
清涼飲料では断然コカコーラが真ッ先であった。泰石酒造が清酒「黎明」を発売したのも相当後である。それからもセブンアップやらペプシコーラ、バヤリース等外資系の清涼飲料水が出てくるのであるが、これ等は一本10セントだった。勿論ドル時代の話である。
片やわが島産飲料もその頃はずい分奮斗していた。その中から幾つかの銘柄を列挙すると、ベストソーダ、ミッションコーラ、ボンジュース、ミスターコーラ、シャスターコーラ、東洋飲料のジュース、ヤクルトなど十指に余る程あった。
この島産たちはオール5セントで外来ものの半値であった。琉球泡盛が臭くて不味い時代、つまり敗戦間もない頃の話であるから遠い昔の日の想い出である。
こんなこともあった。
旧正月が盛んな頃、ヒンスーニーセーター(貧乏二才たち)4~5人揃って私の家で旧正月を祝った。そこで何がしかのカネを出し合って一升びんの泡盛を買った。それだけでは面白くない、今日は正月なんだからもっと“豪勢”にいこう、ということでキリンビールを1本買ってきてそれを泡盛に混ぜた。
色はほんのり黄色くなってうすいビールが出来上がった。皆は手をたたいて喜んだ。が、飲んでみると不味いのなんのって、ただでさえ臭い泡盛なのに、その上に一種独得なくさみが伴い飲めたものではなかった。
しかし、最早やわれわれには買い換えるだけのカネはない。ディーヌマナ(さぁ飲もうや)と言って茶わんに注いで回し飲みをして正月が始まった。悪酔いしたのはいうまで
もない。苦い旧正月のビール泡盛酒ではあった。
さて、生まれ育ちから貧乏をしてきた多くの我々の世代にとっては、元々泡盛が好きで飲んできたと言う人は少ない、と私は思っている。カネが無いから仕方なく、あの時代の不味い泡盛でも安いからそれに甘んじて飲み続けてきた人が多い筈だ。
しかし貧乏者の酒飲みにはそれなりのジンブン(知恵)があった。10セントのコーラーは高嶺の花だから買えない。そこで皆島産の5セントのコーラーやジュースを泡盛に割って飲んだものである。つまり当時流行ったコーク割りである。これだと泡盛の臭みや苦みも消えておいしく飲めた。しかし痛飲すると翌日は頭が重かった。
中でも私が一番好きだったのがベストソーダーのクリーム色であった。これで割ると当時の“一流ウイスキー”のカクテルをはるかに凌いだ。しかし、そういった時代から、つまり臭い泡盛を飲み続けてきた世代の頑固一徹な人々が居たからこそ今回、泡盛が大輪の花を咲かせつつあるのではなかろうか、と私はつくづく思う。
そういう頑固な人々は今でも泡盛を飲んで、酔っても多くを語らない。私はこういう方々には深く頭が下がる。時として泡盛屋で同席すると心から安らぎを感じる。人生ひたすらひとつの酒を好み、そして愛し続けてきたひたむきな酒に対する愛情が点となり、線になり面へと広がっていく。
酒泡盛よ、あなたは決してこういう人々の存在を忘れないで欲しい。
2005年1月掲載