敗戦後の泡盛創業者の中で、企業として本格的に設備投資をしてクースづくりに取り組んだのは玉那覇有義さん(瑞穂酒造株式会社の先々代社長・故人)である。着手したのが昭和34年(小紙第45号)となっているから今から44年も前のことである。
首里末吉町の工場敷地内に2万石の貯蔵施設を建設する時、資金が足りず同氏が人生の師と仰いでいた時の琉球政府の行政主席当間重剛御大を介して、当時の琉球開発金融公社の宝村総裁を説き伏せ、資金を調達したという話は有名なエピソードである。世人をして、“宝村天皇”といわしめていた人物であった。しかし、上には上がいた訳だ。
かくして瑞穂酒造の2万石の貯蔵施設「天龍蔵」は完成している。落成祝いでは真っ先に 当間御大が祝辞を述べていたのが印象深い。玉那覇有義さんは、旧県立第三中学の出で学
生時代から沖縄角力のチャンピオンだったそうだ。
が、私の幼少の頃のことでこの話は先輩から聞いた実話である。この三中は去る大戦でも校舎は奇跡的に無傷で残り、敗戦後は田井等高等学校・名護高校となった。私はそこの5期卒で、いうなれば有義さんとは先輩後輩の間柄であった。
このことはずっと後で知ったのであるが、有義さんには可愛がられもしたが、記事の件では大いに怒られもした。元気な頃よく桜坂にも誘われた。中通りを2人で歩いているとバーのネーネー達によくゲラゲラと笑われたものである。
六尺豊かで威風堂々辺りを払う大男と、片や1メートル50余センチそこそこの小男がノッシュノッシとチョコチョコと歩く姿は彼女達からみればさぞマンガチックでおかしかったのであろう。
あの時代に桜坂の一角に「酒蔵」という泡盛専門の店を構えたのもこの人であった。昔、沖縄グラフ社在職中に首里出身の同僚から聴いた話がある。
首里トゥンジムイ(鳥掘町)の工場兼事務所で一升びんを平らげてから自宅と工場のある末吉町まで歩いて帰り、そこでまた三合びんを空にしてから寝たというのであるから、有義さんの若かりし頃はまさしく天下の“酒豪”だったのである。
生前、氏が私によく言っていたことのひとつに「泡盛は30度が最低の度数で、それ以下は泡盛とは言えない。仲村君はどう思うか」であった。だが、現在の市場は有義さんの理念とは裏腹に25度ものが主流になっている。しかし私は未だこの理念は奥が深く、軽々しく受け流してはいけないような気がする。元々は琉球泡盛は45度と30度であった。
九州の芋や麦焼酎たちの主流は25度である。今後、琉球泡時代が焼酎とあくまでも差別化を図りながら仲良く市場競争を展開していこうと考える時、玉那覇有義さんの“理念”は評価されると私は思う。
それは4年後以降の市場の動向をしっかりと見極めていきたい、と考えている。昭和18年、あの熾烈な大戦の真っ最中に時の陸軍省の要請を受け弱冠28歳で仲間5人の泡盛造り人を引き連れてビルマ(現ミャンマー)行って泡盛造りに成功した男、玉那覇有義さんは泡盛造り人としては偉いと思っている。
「泡盛に命をかける男として、向こうへ渡る途中船が沈没して死ぬのもまた本望」と覚悟を決めていた、というから氏の泡盛に対する情熱は凄まじいものがあったのである。
終始一貫会う人ごとに古酒理論を説いていた。同氏の功績は幾多ある。そのひとつに当時の立法院通いも有名な話である。酒税の軽減を図ってもらう為、毎日立法院の廊下に立ち、酒税担当の平良幸市議員に訴え、同議員もとうとう根負けしたというエピソードも有名だ。
「泡盛は貯蔵すれば必ず売れる」、これが玉那覇有義さんの信念であった。受けた側の平良幸市さんもまた、天下の泡盛愛飲者であった。志が相通じたわけだ。
【2004年月3月号の続く】
2004年2月号掲載