〔2003年2月号のつづき〕
咲元酒造合資会社の先代、政良さん(故人)にはこんな思い出深い話がある。
民族学者の東恩納寛惇氏が昭和の初期頃に文部省から派遣されシャム(現タイ国)を調査した時、かの国の地酒ラオ・ロンを首里の酒造組合に1びん送っている。
同時にタテ約30センチの素焼きの座した仏像と白麹の餅1個を政良さん宛に送られてきた。
「これは泡盛の神様だから大切にしなさい」という手紙が添えられていた。
この「泡盛の神様」はあの大戦の中をも奇跡的に健在だった。敗戦後も政良さんはモロミ仕込み場内の神棚に安置して毎朝仕事始めにローソクを灯し「どうぞ良い泡盛が生まれますように」と拝んでいた。
この光景を私は何度か見た。
片やラオ・ロンに使用する餅麹は工場の外に置いていて雨ざらしで腐らしてしまった。この事は帰国した東恩納学者に聞かれ、「したたかアックされたよ」と政良おやじは苦笑いしていたのが思い出される。
さて、3代目現社長の政雄さんは5男2女の次男である。長男と3男がお医者さんという名門の出だ。1925年生まれの77歳。琉大からニューメキシコ大学そしてカリフォルニア大学と進み、卒業後アメリカ銀行の沖縄支店と東京支店に23年間勤めていたが父親の死で銀行をやめて酒屋入りをしている。
従って英語はペラペラで同社の手帖大のカラー刷りパンフは和英両文で、表紙にはOPEN SESAME!とあり中身は「泡盛を誇りとして」で始まるが、この冊子を見れば泡盛のおよそ総べてが解る。
この人は蔵人であり、芸術家であり、詩人と実に多才な方だ。
ちなみに同社のラベル、化粧箱のデザイン、カラカラー、のれん等は総べてこの社長のデザインである。この人と話していると時間が経つのも忘れる位い次々と話題が出てくるから面白い。
私はこれまでに11枚の同氏の漢詩が書かれた大きな色紙をいただいている。独酌の春宵など時として口ずさむと、
泡盛の美酒 夜光の杯 酔って春宵に和すれば こつえんとして復酔う、
(佐久本政雄社長の作詩)
の心境になる。
咲元酒造には新里康福さんという沖縄で1番長い杜氏がいた。つい最近50年間働いて引退しているが、この人が育て上げた若い杜氏たちがしっかりと後を受け継いでいるから頼もしい。
「手づくりとこだわりの酒というのが咲元の泡盛です」とこのインテリ社長は語っている。近年は本土からの注文が特に増えつつあるという。
北海道、北陸、四国と各地からの人気は高い。個人注文が多いそうだ。たくさんは1度に買わないが1ケースとか2ケース単位だがしかし数が多いという。勿論県内での人気も高く、それがメインの居酒屋も多い。
戦前、この鳥堀町は四方八方が酒屋(造り酒屋)で小学校に入学する子供は酒屋の子が多かったそうだ。それが今日ではここ咲元酒造だけである。
従業員数10人というこじんまりとした蔵元であるが、創業102年という輝かしいその歴史は咲元の泡盛の味に益々磨きをかけてくるであろう。
※咲元酒造合資会社の記事中、…従業員数10名は従業員10名の意味です。
2003年3月号掲載