私たちの年代が青春時代から今日まで泡盛を愛飲し続けてきているのは、何もそれがうまかったからではない。ただ1点、カネがなかったからである。輸入ウイスキーの全盛時代のあの頃、われら泡盛人種はすごく蔑視されたものである。
今のガーブ川の上に水上店舗が出来る前は、農連市場あたりからガーブ川沿い、沖映前まで裸電球がぶら下がっている屋台がずらっと並んでいた。そこでは1合コップ1杯の泡盛が5セントだったからずいぶんと遠い昔の話である。貧乏新聞社ゆえにいつも前借りで2、3人の仲間と出掛け、朝方まで飲んだ。
たまに少しだけフトコロとよく相談してから桜坂あたりに行って、泡盛を注文するとホステスがいやーな顔つきで「うちの店には泡盛は置いてません!」が常だった。時として置いてある店でも1升びんをカウンターの下に隠し置いていたが、カラカラー1本を注文すると乱暴に置いてそれっきりであった。さして客も居ない店なのにホステス達は誰1人こちらを振り向こうともしなかった。アギジャベー、こんなクソ面白くない店で飲むものか、と席を蹴って出たこともしばしばであった。
泡盛党はすごく少数民族で、周囲で飲んでいるウイスキー党たちが羨しくてしょうがなかった。そしてすこぶる偉く思えた。ウイスキーはその種類によっても人間を差別した。そして同じウイスキー党であっても、彼はこれくらいしかカネがないんだと卑下した。しかしわが泡盛党にはいささかたりとも人間に上下はなかった。すべからく無色透明で、止まり木の左右の客が全く初対面でも1献酌み交わすと100年の知己であった。
その頃の実話がある。桜坂のとあるバーに口髭を生やした紳士が2人の美人を引き連れて颯爽と入って来た。座るなり、注文した文句がふるっている。「オードブル2杯!」。 敗戦からようやく立ち上がりつつあった。まさに復興初期は建設ラッシュで俄か成金も多かった時代である。くだんの紳士にママはどうとりなしたのかは聞き漏らしてしまった。
ちなみにあの頃はやたらウイスキーのカクテルが流行った時代であった。ひとはいつの時代でも自然体で、自分自身に正直に生きることが1番大切である。 特に酒の知識に乏しい人間が俄か仕込みで知ったかぶりをすると、人格を失ってしまうことさえあろう。ま、泡盛の世界でも言えることではあるが、少数民族だったわれら泡盛党が今や多数民族になりつつあるのは肩身が広い。
1999年6月号掲載