その頃の泡盛業界の実態はこうであった。一番売れゆきのよかったのが「瑞穂」と「瑞泉」であった。両者共現有の自社製造能力では販売数量を賄いきれず他の製造会社から樋買いをして、それに自社製造の酒をブレンドし、自社レッテルを貼って売っていた。つまり未納税酒を一石当り幾らという風に買い集めていた訳だ。
小さな製造所や売れないで困っている業者には有難い存在だった。買う側にも売る側にもとっても都合のよいことであった。そのことは殆ど消費者には知られなかった。
そういったしきたりは首里那覇の業者が主だった。それがいつの間にか関係者等では、〝瑞泉派〟、〝瑞穂派〟と称したりしていた。未納税業者にとっては自分の酒を買ってくれる会社は〝ワガウシュー〟である。この両旗頭は事ある毎に反目していた。この両雄は常に沖縄県酒造組合連合会の指導的立場にあり、特に総会の時などで会長の選出には名誉欲からかどうか知らぬがとにかく自分が会長になりたいという自意識と名誉欲が強かった。改選では、〝票数〟の多い人が会長になる訳だから票集めはすさまじかった。いつの改選時だったのかははっきり憶えてないが、〝爆弾〟が飛んでいる、というまことしやかな噂が流れていた時さえもあった。そのようないがみ合いは相当期間も続いていた。
その内、大手といわれていた両者も先を見越して製造設備の増設に本腰を入れ、ようやく自社製造だけで商品販売を賄えるようになった。否それ以上に今後市場で太刀打ち出来る位の増設や近代化を続けて行ったのである。
それゆえ未納税移出業者たちは一時困ったが、小さな製造工場でも子供が東京農大の醸造科等酒づくりの専門大学を卒業してきて工場入りする所がどんどん増えてきた。そしてこれまで〝くさい、からい、強い、まずい〟という泡盛の悪評が徐々に「うまい」に変わってきたのである。琉球泡盛が〝科学的に造られたのは敗戦後の〟日本復帰した時点で、沖縄に主任鑑定館が赴任してきた時からである。
初代の主任鑑定官は西谷尚道というひとであった。以上のことごと等は次号に詳しく書くことにして、話を元にもどして佐藤東男さんのことをもっと述べることにしたい。
この人非常に気さくな方で何でもずばり言ってのけた。
今から34年前頃、沖縄県酒造組合連合会の定期総会が那覇市寄宮のゆうな荘(当時)の小ホールであった。終わって慰労会に移った時、瑞穂酒造の玉那覇有義社長が私に話しかけて来たので、どうですか社長、国税の佐藤東男(はるお)局長さんも見えておりますので彼を真ン中にして佐久本政敦(瑞泉社長・連合会長・当時)さんと握手しませんかと持ちかけた。「いや実は僕もそう考えていたんだ。是非君のほうで佐藤さんに話してくれないか」ときた。佐藤さんに耳打ちしたらニコニコ顔で二つ返事であった。佐藤さんはその前に「仲村メモ」をじっくり見て居て二人の仲を察した訳だ。
小紙の昭和49年10月29日付第30号の一面トップに四段ブチ抜きでその写真が載っている。横大見出しに昌く「琉球泡盛百年の大計をたてて共に頑張って下さい」。「両雄成り立たず」というが後年この佐藤東男さんの在任中に琉球泡盛産業株式会社を発展解消させ、沖縄県酒造協同組合が発足した頃には両雄共にすっかり角がとれて対ヤマト移出へ力を注いでいた。思うに琉球泡盛が今日のように我が沖縄県民にヤマトゥンチューにも県民酒としてやや認められつつある時、佐藤東男さんの存在は決して忘れていけないと思う。次号までこの佐藤さんの話は続けていきたい。この辺りから内幕ものを書かないことには読者があくびをする【2007年10月号掲載に続く】
2007年9月掲載