“本部町”と云えば、来る国際海洋博の中心地となるところだが、同町の字東201番地に、広い屋敷をデンと構えた石川酒造所がある。
泡盛造りは戦後民営に移管された年で、ここも戦後からのメーカーだが、現経営者の石川清光氏は、実弟の清氏が事業で莫大な借金をかかえて、二進も三進もいかなくなり、1960年に現泡盛業を引き継いている。いわゆる2代目である。
借財と云っても泡盛業では大繁盛だったが、事業を広げて、清涼飲料水業にも手を伸ばすべくB円時代の1500万円を投じ、ベストから中古の機械を譲り受けて操業したが、売掛や容器回収がうまくいかず、気が付いた時には赤字の累積の山。
当時、那覇市祟元寺通りにスラブ造りの草分け時代に、2階建てと云う豪華な家屋を構えていた清光氏が、そのあと始末をすべく延べ72坪の家と128坪の土地を手離して急遽本部に行き工場再建に日夜の別なく東奔西走したそうだが、債鬼はいつの世にも冷徹で、ちょうどそんなとき、町から1万坪の土地を払い下げて貰って、パイン栽培も手がけていたが、延滞金の催促でチンピラまがいの態度すら見せる銀行員はその土地を差し押さえようと同工場の事務所に座り込みもする始末。
清光氏は当時を述懐して次のように語る。
「話があれば電話下さったらこちらの方から出向いていきますからと云っても聞き入れず、毎日事務所に座り込むのだから、従業員もビクビクして、いつこの会社は潰れるかもわからないと1人辞め、2人辞めしていきました。
あとしばらく私に時間をかして欲しい、工場もあとしばらくたてば順調にいくからと懇願したが駄目だった。それでとうとうその土地も手離してしまった。あの当時は子供も小さかったし人には云えない。実際惨めな生活でした。
今時分になって、あの銀行から預金や取引の勧誘に来るが相手にするものか。」
と、恨み骨髄に達していると云えば語弊があるが、産業育成策と云う面には一顧だにせず、ただただ滞納処分だけを考える銀行のやり口に語気を強めるあたりは、すでに過去への鬱憤ばらしではなく、現在では押されもせぬ成長した企業の経営者の自信とみるべきであろう。
工場敷地坪数800坪、工場建物坪数541坪、地下タンクが14号まであり、内2ヶ所は約30石、あとは3石入、ホーローが5本(20石入)。
販売石数は現在月約30石だが、40~50石位まで伸ばしたいと語っているが、どうしても100石以上売らないと儲けにならないし、100石売上を目標にしていきたいとも語る。生産能力は100石まで十分あるとも付け加えた。また、今後は雑種免許を持っているので、ブランデー等も手がけていきたいと意欲満々である。
満名川の水質は保健所からも太鼓判を押されている水であり、泡盛“琉華”の他に、合成酒“正宗”“ハートジュース”も製造販売しているが、このサイドビジネス的存在のハートジュースも最盛期の夏場は1日500ケースも出しており、堅実な歩みを見せている。
長男は1人前の薬剤師として那覇で活躍しており、ニ男と三男が父の左右の腕として毎日酒造りに励んでいる。常勤3名、臨時8名の従業員を抱える清光氏は、一見柔和なタイプの人間にみえるが、ガッシリした体躯の奥深くにはムトブンチュー(本部人)特有の負けじ魂がひしひしと感じられる。