“伊野波の石こびれ無蔵つれてのぼるにやへも石こびれ遠さあらな”
有名な古典“伊野波節”である。その昔、恋に陥ちた2人者の若者がガタガタ道を歩みながらままならぬ“定”にうたった悲歌であると云われているが、その有名な古典のふるさとが本部町伊野波である。
その上方に字満名部落が点在するのであるが、ここ八重岳のふもと、満々と清流をたたえて悠久普遍に流れる満名大川沿いに「山でおなじみの山川酒造(社長 山川宗秀氏)は、ある八重岳連山のふところに深く入り込ん此の部落は殆ど四方が山に囲まれ谷間の部落。
どこを振り向いても蒼たる緑一色の境地は真夏でもヒンヤリとするほどの冷房地帯である。だから本部町でも満名に美人が多いのをこう云う天与の清流と緑に育まれた由であろう。
こう書き下してくると、もう山の泡盛がうまいのもうなずける訳だ。山川酒造の歴史は終戦直後の創業だから、かれこれ21年になるが、創始者の山川宗道氏から現社長の次男宗秀氏に受け継がれて現在までの間には幾多の紆余曲折があったのは云うまでもない。
がしかし満名川の水の絶えぬように山川酒造場も今では北部一の販売量を誇るまでに栄えてきた。その上、1969年の日本全国酒類調味品々評会に於いて見事金賞を受賞している。更に来年度は酒界最高の栄誉であるダイヤモンド賞に挑戦すると社長宗秀氏は宗を張ってみせる。
それも実力を物語る山川酒造場の当然の挑戦だと云えよう。今や山のレッテルは地元の本部町、伊江村上本部村を始め、中部、那覇までも伸びている。やはり消費者が強く望んでいるからであり、中部や那覇に在住する万余の本部出身者はおらが村の銘酒をこよなく愛しいるからである。風味がよく、有り余るほどの満名川の清流で醸される泡盛。
山の絶対の強みは異郷にあってしかりであり、地元に於いては商工会や町村民の熱烈なファン層となっているのである。又、タマの泡盛は北部では唯一のオートメ工場でもある。工場敷地坪数が約2,000と云う規模は、今後の増設、改築にも思う存分の余裕がある。
ここで現社長の横顔について少し述べてみたい。
山川宗秀社長は南米ペルーの産である。昭和3年(1928年)に帰沖して本部小校~開南中校と云うコースをたどって、終戦後は久志村大浦崎の本部、今帰仁伊江島町村民の疎開先で飢えをしのぐのに精一杯の当時、バラック小屋で教鞭をとり、以来本部第二小学校~伊野波小学校と教育畑を歩んできたのである。そして昭和25年(1950年)に教職を退き、500年の伝統を誇る泡盛業に専念してきたのである。
氏の事業欲は旺盛で、泡盛業の他に北部丸山タクシー会社も経営しているが、養豚もしておれば、沖縄サントリー株式会社の重役でもあり、多忙を極める毎日であるが、その忙しい中で渡久地警察署の若いお巡りさん達に柔道の稽古もつけていると云うスポーツマンでもある。又琉球酒造組合連合会の理事の肩書も持っている。
「もとぶなちじなが やどかいがいもら くとばやふあやふ あとむどちたぼり」
琉歌にもうたわれている北部山人の気風を地で行く男が山川宗秀氏である。和を愛する人であり、相手の話をとことんまで聞く雅量をもっているが、この人が一旦出来ないと云えば、どんな人が云っても聞き入れないと云う一徹者でもある。そこはやはり北部人特有の気質であろう。
1972年本土復帰を控えて、今沖縄の泡盛業界は企業の合理化を強力に推進しつつあるが、北部の場合、立ち遅れの感じがしないでもないが、今、山川氏は北部の酒造組合の副会長として、北部業者の結束が必要だと説く。全泡盛業者の考え方は同じであり、目的は1つだと云う考え方である。
そう云う面は思慮分別をわきまえていると云えよう。中央の大手メーカーが十余万の北部消費者を狙って虎視眈々としている中で、山川氏は逆に中央消費市場を狙っているのである。その勝算は山川氏の胸中にある訳だが、問題は資本力となろうが、氏にはその財力も十分貯えているのであろう。
中部、那覇に在住する北部郷友は万余の人口であり、布石はすでに打ってある。山の泡盛にしてみれば、今後はじわりじわり押してくることは先ず間違いないであろう。現在、本土輸出酒は琉球泡盛産業株式会社を通して出荷しているが、非常に好評である。
「満名川ぬ水(みじ)ゆいが やゆら山川ぬ酒や匂いゆたさ デイドシビ飲デンダナ」
山川酒造場の“うた”である。この歌詞は伊江村の仲嶺氏の作であるが、山の泡盛を云い得て妙である。これ程までに地元に強く密着した山のレッテルは、今製造が間に合わぬ位の嬉しい悲鳴をあげているが、そのシェアにあぐらをかくことなく、若い宗秀氏は今後も伝統の琉球泡盛づくりに邁進していくことだろう。そして今後の氏の動向に注目したい。