よもやま話発刊に際して

   

awamori_yomoyamabanashi_hakkannisaishite この現行は今から十年前に田崎聡という人と出会ったのがきっかけで書き始めたのがそもそものはじまりである。当時この人は「うるま」という月刊誌の編集長であった。或る日電話で私に会って泡盛の話を是非取材したいというので、那覇市安里にある泡盛と琉球料理の店「うりずん」の二階を指定して会った。若い女性二人のカメラマンに田崎さんの三人であった。

泡盛を汲み交わしながら話しは弾み長時間に及んだ。帰り際に田崎さんが言った。仲村さん、うちの「うるま」に毎号泡盛についてこれまで長い間取材してきた中での見聞録みたいなものを書いて下さいませんか、と言ったのである。私は酔った勢いで、泡盛の事でしたらいいですよ、と二つ返事でOKしてしまった。

翌日、よく考えてみると自分の新聞(醸界飲料新聞)さえも毎号取材やら編集、広告交渉やらでフーフー汗をかき、発行もおくれていながら、他誌への寄稿などは至難の業であった。案の定私の原稿担当記者は泣かされ通しで会った。電話ではラチがあかず何十回も家まで押し掛けられた。その上二、三回原稿が〆切りに間に合わずパスしたこともあった。

それが100回以上も書いて連載されたことは私にとっては無上の喜びである。 それもこれも月刊「うるま」のオーナーや担当編集記者の皆様方のお力添えであり誌上より厚く御礼を申し上げます。

この本の最初の題名も「泡盛天国」であった。何回目からだったかおぼえていないが「泡盛よもやま話」になった。そしてこの本の題名は「よもやま話」となった。掲載ごとの大見出しも変えた。内容の大部分は小紙醸界飲料新聞に掲載されている記事の引用であり加筆した「出来ごと」である。

が、いずれの記事も事実を述べているのであってフィクションではない。記事をまとめながらフーッと大きく息をすきんでしばしペンを置いたりして、昔日に想いを馳せたことしばしばあった。泡盛メーカーとは酒泡盛のことで議論をしたり、怒られたり、今にもぶん殴られそうになったり、時には誉められたしたウフヤッチー(大兄)達は皆黄泉のくにへ旅立ってしまった。

私にとっては人生の恩師であり泡盛づくりの教師であった。実に頼もしく尊敬する恩人たちであった。この稿を書き重ねることができたのもウフヤッチー達のお蔭であり、心から御礼を申し上げご冥福をお祈り致したい。 そしてこの一冊をお読み下さる方々が、わが愛すべき琉球の文化遺産であり我々沖縄人が守り育てていかなければならない沖縄の伝統産業の琉球泡盛についていささかなりともご理解をいただければ幸いである。

追伸
この「よもやま話」はまだまだ書くつもりでしたが、残念なことに月刊「うるま」が休刊の止むなきに至りましたことは私にとっては非常にさみし思いでいっぱいだ。  

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