小紙第7号(創刊1周年記念号)に実に面白い座談会の記事が載っている。出席者は石川逢篤さん(元泡盛メーカーで戦後は琉球火災海上保険(株)社長)、佐久本政良さん(咲元酒造前社長)、花城清用さん(戦前の琉球新報記者で戦後は沖縄製粉(株)の専務)、新里肇三さん(琉球泡盛産業(株)元専務で現新里酒造会長)の面々で司会は浜元朝起さん(当時の琉球泡盛産業(株)の総務部長)が担っている。
大見出しは「琉球泡盛、今と昔」となっていて、発行は1970年6月1日付であるから、今から34年も前の話である。この号はその中から抜粋、戦前レコードを作った“酒は泡盛”の歌の作詩、作曲ができるまでのエピソードを紹介することにする。
第8号まで続くのであるが、まだまだ面白おかしく、なおかつ当時を想像するにいかに琉球泡盛製造業者たちが時の“権力者たち”からいじめ抜かれていたかを物語っている。
例えばこの中で、当時は筆頭多額納税者であった泡盛製造業者たちが税務署の窓口に行った時など、自分は踏ん反り返って、泡盛製造業者は長時間立ちん坊のままでの応待だったというのだから、いかにあの時代の税務官史が横柄であったかを垣間見る思いがする。
ヤー(実家)は造り酒屋でありながら琉球新報の一線記者だった花城清用さんが税務署に立ち寄った時、その光景を目のあたりにして『ヌーガサイ(なんで)、ウンジュナーヤ(皆様方は)多額納税者だのにそんな態度は許されないですぞ』、と応接間に案内させた、という。
誠にもって“痛快”この上ない気骨ある新聞記者魂を見る思いがする。後にこの二足の草鮭を穿く第一線記者花城清用大先輩は醜税史事件なる世間をアッといわせるスクープをモノにして同業記者たちと共々に“大掃除”に敏腕をふるっていくのである。
2004年12月号掲載