沖縄の重要産業の歌だ~新聞記者魂を遺憾無く発揮~

   

awamori_yomoyama_71_okinawa-key-industry-song_liquor-is-awamori小紙第7号(創刊1周年記念号)に実に面白い座談会の記事が載っている。出席者は石川逢篤さん(元泡盛メーカーで戦後は琉球火災海上保険(株)社長)、佐久本政良さん(咲元酒造前社長)、花城清用さん(戦前の琉球新報記者で戦後は沖縄製粉(株)の専務)、新里肇三さん(琉球泡盛産業(株)元専務で現新里酒造会長)の面々で司会は浜元朝起さん(当時の琉球泡盛産業(株)の総務部長)が担っている。

大見出しは「琉球泡盛、今と昔」となっていて、発行は1970年6月1日付であるから、今から34年も前の話である。この号はその中から抜粋、戦前レコードを作った“酒は泡盛”の歌の作詩、作曲ができるまでのエピソードを紹介することにする。

小誌第7号抜粋記事

花城
「今石川さんからもお話があったようにね、ポスターもね作る、おそらく酒の宣伝をするためにレコード作ったのは沖縄では泡盛が先です。“酒は泡盛、力の泉”あれは宮良高夫君がね、一昨年12月に死んだ、毎日新聞の記者だった、あれが丁度私達一緒に新聞社(琉球新報)におった、詩人グヮーですからね、イヤーチュクレー(君作りなさい)といって作って、それをレコードにした。先ずそのレコード作ったね、請負いした人、渡久地という人まだ生きていますよ那覇に。」

(中略)

花城
「歌詩は出来たんですが曲がなければ何もならんでしょう。結局、当時は作曲家は宮良長包先生以外にいない。それで先生に会ってお願いしたら『作りましょう』とた易く引き受けてくれたんです。

ところが、昨日は『花城君、昨日は引き受けたがどうも考えてみたら教職にたずさわる者が、酒の宣伝歌の曲を作ったといったんじゃ具合い悪い』と、お断りだときたんですよ。それがゆき詰まりです。

困ってしまって、丁度山口尚章という県の内務部長がおったんです。当時私は記者もしておったので、同部長からかわいがられておったので、仕事が終わった頃を見計って官舎に行ったら、何しに来たというものだから、実はこれこれの用事でお願いにあがったんですといって、宮良さんは最初は引き受けたんですが、あとから学務部長からお叱りを受けるからと断られて困っていると言ったら、『花城君、そんな事気にするな、明日僕から言いつけるからまぁ心配しないでお茶でも飲んで帰りなさい』といわれ、『なんで酒の歌と考えるのか、泡盛は君砂糖に次ぐ重要産業でしょう。沖縄の重要産業の曲を作ったと解釈すればいいじゃないか』ということで内務部長から言わせたら、翌日朝早く宮良先生から電話がまいりまして『学務部長から喜んで作りなさい』と電話があったと。おもしろい工ピソ!ドがありますよ」。

 

第8号まで続くのであるが、まだまだ面白おかしく、なおかつ当時を想像するにいかに琉球泡盛製造業者たちが時の“権力者たち”からいじめ抜かれていたかを物語っている。

例えばこの中で、当時は筆頭多額納税者であった泡盛製造業者たちが税務署の窓口に行った時など、自分は踏ん反り返って、泡盛製造業者は長時間立ちん坊のままでの応待だったというのだから、いかにあの時代の税務官史が横柄であったかを垣間見る思いがする。

ヤー(実家)は造り酒屋でありながら琉球新報の一線記者だった花城清用さんが税務署に立ち寄った時、その光景を目のあたりにして『ヌーガサイ(なんで)、ウンジュナーヤ(皆様方は)多額納税者だのにそんな態度は許されないですぞ』、と応接間に案内させた、という。

誠にもって“痛快”この上ない気骨ある新聞記者魂を見る思いがする。後にこの二足の草鮭を穿く第一線記者花城清用大先輩は醜税史事件なる世間をアッといわせるスクープをモノにして同業記者たちと共々に“大掃除”に敏腕をふるっていくのである。

2004年12月号掲載

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