仕事に対する根性学ぶ~桜井中将閣下がこれはうまい~

   

【2004年月2月号の続き】

awamori_yomoyama_62_tamanaha-ariyoshi_mizuho-syuzou_work-style_guts_learn瑞穂酒造株式会社の二万石貯蔵施設「天龍蔵」の落成記念式典と祝賀会は昭和46年4月10日、同工場内で盛大に挙行された。不思議な事に約2,500人の招待客の中に泡盛メーカーはたったの4場だけであった。各界のお歴々の祝辞の中でユニークだったのはピンさんこと高良一さんの挨拶だった。

「私は泡盛一辺倒だが、先だって或る友人にナポレオンの容絡に古酒を入れて飲ませたら、側にある古酒の容器に入っている泡盛よりこのナポレオンがうまいと言っていた』・・・

というくだりだ。玉那覇有義さんの功績は多い。キャップシールの実現、「泡盛の定義付」などでも尽力した。これは本場沖縄で造る泡盛だけを復帰時にに固有のものにしよう、というねらいがあり、同氏がいかに将来の琉球泡盛に対する保護策を訴えていたかがうなずける行動であった。

これは後年実現を見たものであるが、とにかく先を読むに長けた人であった。戦争中に弱冠28歳で5人の酒造り仲間達と一緒にビルマへ渡り、彼の地で泡盛づくりに成功、「その第一番酒を一升壺に詰めて現地司令官の桜井中将閣下を宿舎に訪ねね味見させたところ、ひとロ飲んだ司令官「うーん、これはうまい」と言ってくれたので、早速首里の酒造組合に電報を打ちたいと申し上げたら、同中将は上機嫌で「それならば軍の打電機から打ってあげよう」ということで“ワレ アワモリヅクリニ セイコウ”と打ったら、首里の酒屋のタンメー(長老)たちは大喜びしてして祝盃ををあげたそうだ。

と後年私に得意げに語っていた。中学(旧制)生時代に沖縄角力で横綱になった有義さんは横綱現役を引退したのもこの男らしいところだ。敗戦直後の泡盛酒造業者には個性味豊かな“野人”が多くいた。

しかし、ここでいう“野人”とは決して未開な人とかの類いではなく、頑固な一徹者で信念の強固な人間を意味している。有義さんもこの一列に加えることができる。こんな事もあった。

事務所へ取材に行った時、門の角に一人の男が茶色の3合瓶を抱えて立っていた。「どうしたんですか?」と尋ねたら「この瑞穂の瓶の中に蠅が入っているので文句を言って換えに来たが会ってくれない」のだという。

どれどれと瓶の中を見ると、なるほど蠅が一匹動いている。事務所に行って有義さんに「3合瓶で1本ぐらい新しいのと変えて頭を下げたらどうですか」と私が進言したら「ウッター ヤクシナイシガ仲村君、ワジャツトゥイリティガウイラワカランシガ(こいつらわざと入れていっぱい入った新しい瓶と換えるたくらみかも知れないよ、そうしたらクセになって商売にならん)」と言って頑として聞き入れてくれなかった。

どこから見ても頑健そのものの大男も病には打ち勝つことができず、この世を去ってしまった。昭和52年7月2日、享年62歳であった。当時の沖縄県酒造協同組合の理事長、佐久本政敦さん(故人)は次のように哀悼の言葉を述べている。

「仕事に対する根性は大いに学ぶべき人であった。深謀熟慮というか、耐え忍んで徳川家康の鳴くまで待とうの心情ね。印象に残ることは昭和16年ごろ国際情勢の緊迫で外米が入らず、原料米をどうするかと心配している時、仲吉良光さん(後の首里市長)が当時東京日日新聞の記者をしていたが、彼が農林省に外米があるので払い下げ運動をしたらどうかというので、業者の若い人に行ってもらおうと崎山起松さんと有義さんに私と3人で行って荷見安米局局長を紹介され、深川の倉庫に行って払い下げてもらったのも思い出深い。」

クースづくりに執念を燃やし、そして今日のクース文化が大きく花開くのを見ずに逝ってしまった一人の泡盛男、玉那覇有義ウフヤッチー(大兄)の新年は後世に深く刻まれるであろう。

2004年月3月号掲載

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