20周年を迎えた琉球泡盛産業株式会社(昭和46年7月30日)

  • [公開・発行日] 1971/07/30
    [ 最終更新日 ] 2016/03/28
   

琉球泡盛産業株式会社(崎山起松社長)が、去る7月15日で創立20周年を迎えた。1971_7_30_it-celebrated-its-20th-anniversary-ryukyu-awamori-industry同社は当時、68工場もあった泡盛業者が1工場当たり1,350株づつ持ち寄って設立された所謂(いわゆる)業者の会社である。

当時は泡盛の原料も砂糖を使用し、米は麹だけに使用した時代で、主に島内の黒糖、宮古・八重山の黒糖、台湾の粗糖やキューバのグラニュー糖などを使用していたが、それでは雑酒と云う定義になり、輸出も認められず、設立5年目から米を原料として使用するようになり、輸出も認められたと当時を知る或る業者は語っている。

現在は原料米の輸入先はビルマ(現ミャンマー)が7割で、3割はタイ砕米となっているが、良し悪しについてはいちがいには云えないようだ。

資本金1,000万B円(85,000ドル)で発足した同社の最初の砕米輸入量は1,500トンであったのが、現在は年間輸入枠が14,000トン、実質輸入数量8,750トン(トン当たり約92ドル20セント)と20年間で約6倍に伸びてきている。

しかしいっぽう泡盛の輸出は、1951年11月に初出荷したのが東京で30石、1956年には輸出窓口が一本化されていた時代で、2,300石の実績を残しているが、現在は1,000石内外と停滞気味である。

伸び率から見ると20年前と比較した場合、約50倍と云う数字が出るが、しかしながら砕米輸入数量からみると、泡盛の需要量は島内に於いては消費者層がやや安定した感じであり、島内シェアの伸び率は急激には望めそうにない現在、輸出数量は非常に少ないと云わねばならない。

原料米にしろ、泡盛の輸出にしろ、この数字はあくまで同社扱いの数量であり、別ルートで食糧外車から契約購入している業者もあり、又、泡盛の輸出にしても個人輸出業者があり、実際には原料米や輸出数量も数字では大きく上回る。しかし、島内が頭打ちの現状では、もっと泡盛の数量を伸ばすためにどうしても市場は本土に求めなければならないだろう。

40,000石台を上下する島内消費量と云うのは、業者の共食い、即ち一方が伸びると片方が販売高が落ちと云うアンバランスな維持数量であって、決して泡盛全体的な伸びではないようだ。

現在、同社窓口を通して統一ラベル“琉球泡盛”で輸出されている泡盛は16工場から集荷されているが、主な輸出先は東京が中心になっている。税関手続き等の複雑な面で、取引の問合せもひっきりなしにくるが間に合わせきれないのが実情だとしているが、復帰後は大きく伸びると同社ではみている。

いっぽう、輸出用の容器もこれまでの焼き物容器からポリ容器、キュービキーナー(キュービ容器)に変えている。焼き物の場合、0.6%のダメージを出していたが、キュービキーナーを1970年8月から使用、いっきに破損率をゼロにし、又、ポリは場所をとらない上に持ち運びが便利であり、吸い込みも全くないし、コストも安い上に運賃も安い等、ポリ容器の有利性を強調している。

一時斜陽産業とまで云われていた琉球泡盛業が業界の努力と消費者の認識によって、ようやく基幹産業にもなりつつある現在、同社を支える各業者が同社の性格を再検討し、創立当時の初心にたちかえって吟味されるべきではなかろうか。

団結もよし、解体もよし、一に各業者の双肩にかかっていることであるが、20周年を迎えた現在、同社の抜本策をとなえる内外の関係者も大勢いることは確かである。いずれにしても今後内外情勢は大きく変動するし、各業者が先見の目を持って自分の足もとを見る時であろう。

B円(ビーえん)

1945年~1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美群島(トカラ列島含む)で使用されたアメリカ軍発行の軍票のこと。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨であり、日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であった。正式名はB型軍票。

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