【座談会】琉球泡盛 今と昔(昭和45年7月30日)

  • [公開・発行日] 1970/07/30
    [ 最終更新日 ] 2016/01/22
   

1970_7_30_ryukyu-awamori_past-and-present_private-symposium戦後ようやく、といってもごく近年になって琉球泡盛の真価が再認識されるようになって来たことは業界始め吾々沖縄経済発展のためにも喜ばしい現象である。500年の伝統を誇る、吾々の祖先が残してくれた偉大な基幹産業等々、いい古されていてしかも今尚その言葉自体PRされてきている琉球泡盛。

ただ飲む、飲まされて嬉しがっているだけでは吾々消費者も同時に祖先に対して申し訳ない話。少くても500年前とはいわんまでも、戦前の泡盛の状態までは知ることが出来る、又知りたい、或いは吾々沖縄の人にとっては知らなければならない?のが琉球泡盛の歴史である。

ことに本紙創刊1周年を記念して座談会をもち、戦前、琉球泡盛メーカーとしてトップで活躍された(注:佐久本氏は現役)方々に一夕、琉球料理店“風味”にお集リをお願いしし、戦前の泡盛について大いに語っていただき、現業者への建設的なご意見等も拝聴致しました。愛飲家の知識の一端、メーカーの参考になれば幸いである。題して“琉球泡盛の今昔”

出席者

1970_7_30_ryukyu-awamori_past-and-present_private-symposium_attendee◆石川逢篤氏(元琉球火災海上保険KK社長)
◆佐久本政良氏(琉球ニッカウイスキーKK社長・咲元酒造社長)
◆花城清用氏(沖縄製粉KK専務)
◆新里肇三氏(琉球泡盛産業KK専務)

<司会>浜元朝起氏(琉球泡盛産業KK総務部長)

 

以下より対談が始まります。

佐久本政良

みんな今までの実績に応じて割当制が決まったものですから、製造高に応じて1円の共済会の積立をやろうじゃないかと云うことで、昭和7年(1932年)8月11日からです。最初はみんな苦しんでおりましたが、無益な競争がないからなんとか切り抜けてきたわけです。

最初2万石を割り当てたのが2万5千石までになりましたね、毎年上がって、吉村所長が居る時に、それが積立金は戦争直前までやって、それが54万幾らで、当時共済会の金じゃなくて54万余と云うと大きいですよ。

 

新里肇三

これは酒造組合のお金だと思ったら、お宅個人の金額ですか?

 

佐久本政良

そうなんです(みんな口を揃えて頷く)。

 

新里肇三

ハッサミヨー ウレー レージヤッサー

 

花城清用

それでね、銀行でも隅にも置かないでね、酒屋の連中はチヤホヤですよ。

 

石川逢篤

それでわかりますが、最初は統制とっておったから660石から9年後には1千石になっていますよ。

 

佐久本政良

結局みんなが立って行けるようにやろうと云うのがこれです。

 

新里肇三

昭和14年(1939年)頃ですか。

 

佐久本政良

はい。それから戦争状態になったものだから、もう疎開も始まっているし、大分難色はあったが金もお互いにあまりないものだから、これを分けて、本土での生活費の足しになるかもしらんから、とにかく戦争状態になってからでしたな、金を分けようと云う話が出たのは。

 

花城清用

そうです。

 

無益な競争を切り抜ける

 

佐久本政良

補助ではないですよ。袋当たり10セントでしたか、取っていいと云うことでした。それがあとのまぁ連合会の定期預金にして将来の輸入米の購入資金にもっていこうと云うのが狙いでした。

 

花城清用

生産から販売まで一丸となってやったと云うことですね。みんなが心を一緒にしてやったから当時の繁栄をきたしたんじゃないかと考えられる訳です。

 

石川逢篤

輸出が2万石でした。

 

花城清用

戦前も輸出は一本化です。

 

佐久本政良

それからこう云う時期ですから、みんな一丸となってやった方がよいと云うことで、農林省に払い下げをお願いするとか、それからシャム(現タイ)からの輸入を、あの当時、統制局からみな、組合として入れるようにしたら組合としてはいかん、連合会で、全酒屋にと云うことになって、県の商工課で取って連合会に入れて、連合会は宮古組合、八重山組合、本島組合にいくらと、それを取扱うのは組合がやって、東倉庫と云ってですね、通堂町を全部借りて業界の安定を図るために、その手数料を私達が収めるんじゃなく、県の商工課から連合会にありました。

 

花城清用

補助はありませんよ。輸出の場合、審査委員がおりましてね、悪い時ははねるんです。度数が足りないとか、品質が悪やつは。

 

新里肇三

輸出は一本化しない限り絶対伸びないと思いますね。

 

佐久本政良

結局、原料の輸入も窓口一つでやるし、これが非常に業者が安心して操業ができた原因でしょう。

 

花城清用

全琉でもね、これはシャムから、一本化されていますから那覇港にすぐ船が廻るんですよ。それはまぁ、余談になりますが、一度、船積みする時は1割増しの保険がかかるでしょう、朝日山丸にね、米を満載にして那覇港に運ぶんですがね、船が沈没してしまって、そしたらね、1割増しの保険は入るでしょう、又あとで向かうから米は入れましたがね、この1割増しのね保険金が3千円余り、当時の金では大きいですよ。

入ってきたんですよ、そしたら戦時体制中ですからね、勿論金を出すのも事務的な面は組合でやりましたが、これは責任者は県知事でなければならんと云う訳でね、県知事が輸入責任者ですよ。

ハーガーですよ、そうすると県知事になっていることをいいことにして、ね、武政と云う経済部長が居ましたよ、クヌヒャー ヤナガターでね、こいつがね、たまたま大連斡旋所と云うのをつくってあったけれども資金不足でね、発展しないです。

自分がつくって発展しなければ面子にかかりますからね、輸入責任者は県知事になっておりますから、これは県が取得すべきだと云い張ったんですよ。そしたら石川さん等佐久本さん等が呼ばれて県が取得すると云い出したんだ。

 

新里肇三

ムチカサーエービーテーサヤー

 

花城清用

それで役員会開いたら「ア、ウリウッター タージンサーニル 仕事ン ヌンアマノーサン、ただ名義人 ビカー ジルウチェールムンヌ」とみんな反対して、たまたま私、新聞記者をしていたものですから、私は行ったんです。

そしたら武政経済部長、会ったらね、何故、連合会長はどうしたか、組合長どうしたか云うからね、いや私はね、呼んで来いと云うものだから実はもう役員会でも決まったと云ったらケンもホロロな挨拶ですよ。

ワラバー アチケー されたものだから、癪に触ってね、一体あんたはね、たまたま自分で取得しようとすると、県がね、外から金を受け入れる場合ね、県会に図って歳入面で繰り込まなくちゃならんのでね、どの理由で入れるのか、吾々が自主的に記入すると云う条件がない限り、勝手にできんじゃないかと、あんたとは話ができないと云って、癪に触っているから、帰ったんです。

それで2階でね、亡くなった平良辰雄さんが商工課長だったんです。経済部長に呼ばれているんです。それからあの男は何かと聞かれたから、あれは新聞記者の現役ですよと云ったらね、それで強じように出ているんだな、すぐに呼んでこいと云って玄関まで追ってきていましたよ。アァワンネーウヌチュトウアーランジガサイ(全員爆笑)。

それ以前からこの人、評判が悪かったんです。こいつは、ウチナーンチュを圧迫していると云って、だからアーランと云ったらね、ワン チラ タテテ クイレーイヤー、それでもアーランと云ったらね、アンセー ワントゥ アーイン と云うからウンジュ トゥ アーイン と云うことで、2人で高等官食堂で話してね、そんならね吾々が取得すると云うことにして、これは吾々のものでしょう。

県にいくらか寄附すると、県が取得して、その内から千円は君達にやる、そんな馬鹿な話がどこにあるかと、逆じゃないかと、どこまでも所有権は酒造組合連合会のものであるが、連合会の好意によって県に寄附すると云う条件なら帰ってから役員会に図っても了承をつけると云うので、役員かに図ってこれでいいと、千円は上げましたね(笑い)。面白いエピソードがありますがね、デージナー ヤナ ガター経済部長でしたよ。

 

石川逢篤

男武政と云ってね(笑い)。

 

男武政経済部長と言ってね

 

花城清用

あれね、ちょうど井野知事が沖縄新興5ヶ年計画を作った時ですよ。その時に来たんですよ。部下職員を風月楼に招待して、おそらく自分の金じゃないでしょう。宴もわけなわにしてね、即興詩をつくってから皆唄をうたいなさい、ンチョウ、チャーシチュクタガンチャクト、“振興計画目指して来る、男武政経済部長 ンリイヤーニ”、ンナ手打ッチ(一同大爆笑)。みんな苦笑していましたがね、ムル フラードヤンデー。

 

佐久本政良

当時ですね。不況時代の大正12年にね、大島で西平君が向こうへ行って泡盛蒸留をし、しばらくしたら宮古で野村さんが、それから他にもやると、こう云う風にして宮古が4千石位じゃなかったんですかな、大島もそれ位、それくらいのお得意様が無くなった訳でしょう。それで島内はほんとうに無益な競争ばかりしておったんです。

それで結局、不況の対策をどうすればよいか、それは相当の手腕のあることをやらんといけないと云ってやったのが、今先話がでたように、吉村と云うひとでして、製造石数の割当制です。

 

新里肇三

酒の一本化ですね。連合会でやったと仰言(おおせこと)いますけれど、そう云った営業行為もできた訳ですか?

 

佐久本政良

えぇ、やっているんですよ。

 

花城清用

沖縄酒造組合として。

 

石川逢篤

統制出荷です。県外移出は各人がやってね、共済会で酒を造る、造ったのは各酒造組合の組合のを買う、その時までは共同出荷じゃないです。共同出荷になったのはその後です。昭和16年(1941年)からは強制出荷です。

 

漢那将軍にしかられる

花城清用

1970_7_30_ryukyu-awamori_past-and-present_private-symposium_conversation-landscapeさっきも石川さんからお話があったように1度はね、ヤマトに行ったら向こうの酒屋はみんな規模が大きいでしょう、向こうのポスターみたらデカデカ大きいでしょう。沖縄のポスターは作ろうとしても小さいポスターしか作れんでしょう。

クリクマツタムンヤッサーと、大きく作ろうと思えば金はないし、東京・大阪の得意店からはね、ポスターなんかも作って送れとくるでしょう。じゃもう小さければ小さいのを、先ず沖縄のローカルを織り込んだのを作ろうと云うんでね、比嘉華山さんと云ってね、絵書きが若狭町にいましたよ、あの人にね、頼んで、あのね、梯梧の木の下にチージヌイナググワーヰシヤーニカイ、それも肌ね、沖縄上布着せて、肌襦袢(ジュバン)も着けさせないで肌が見えるようにして、乳グワーミールグトシ、ウチナーカンプーユーヤーニ、そしてサカヂチ小メーナシミヤーニ、そのポスターを作ってね、東京・大阪に配りに行ったんですよ。

そしたらね、東京行ったらね、漢那将軍カイアツクサツテヨー(一同爆笑)。君達はね、何で沖縄のね、恥さらしをするかんち、ウチナーカンプーでしよう。さんざんアツクされてね、吾々はもう、トウ、アツクスルグライヤレーヤー、ウフエー反応効果ヤアサと云って黙っていたらね、案の定東京も大阪も得意先はナーヒンノーネーニと云って(笑い)。

 

佐久本政良

最初はね、女優の田中絹代の、無断で怒られるなら怒られてもいいからと云って、移出に力を入れなくちゃいかん云んで、

 

花城清用

あれは大阪斡旋所で作ったんですが、そこに西村と云う所長が居ったでしょう。向こうは沖縄の漆器、陶器など陳列してありましたが、サカヂチ小も盆小もあるし、当時田中絹代が若くてね、ユカタ小着けて座っているプロマイドを買って来てね、サカヂチ小、盆小も別々に写真を撮り、それをくっつけてやったら、田中絹代が泡盛小メーナチョーンネー写真小になったんですよ。作るのは作ったけれど、ドーナークレー田中絹代ネー了解得ランレーヤー、非難受キヤーニ、罰金クワーサレーチャースガと云う又懸念が出た訳ですよ、罰金クワーサリヤーニ新聞カイヌイネーヤー宣伝効果100%ヤクトシミルスルンチ(大爆笑)。

 

“ほがらかな酔い 飲むなら泡盛”

佐久本政良

そして出したらあとは東京・大阪の要望で今花城さんが云われたようい、沖縄のローカル色を出した方が宣伝効果があると、先生方とか在京先輩方の苦情もありましたが、結局はよかったですよ。

 

花城清用

立看板もあちこちたてましてね、今の国際通りのあの頃、墓地とかしかないでしょう。道そばの小高い丘にね、巾2間、長さ5間位の大きい看板を建てたことがありますが、ウリンカイね、日本の焼酎の文句にね“ほがらかな酔い、飲むなら焼酎”云うのがあったんですよ。それをもじって“ほがらかな酔い、飲むなら泡盛”と書いて看板を建てたんです。

そしたらね、女子師範のね、川平校長が女子一高女生の通り道と云って佐久本と云う習字の先生が酒造組合に来られて、撤去してくれと、何ですかと聞いたら学生のね、通学路だから教育上よろしくないときたんですよ。

出来ませんと、飲むなら、であってね、シイテヌミンリチエーカチエーネーンシガと、断ったことがありますが、その後、5~6日してから師範学校に用事があって行ったんですよ。たまたまこの話が出たらね、あれはかえって消極的だと、何故、飲め泡盛と書かないかと(大笑い)。

 

泡盛はひと月もおけば立派な古酒

佐久本政良

あれ本当に問題になったね。飲め泡盛にした方がよいと云う各方面からの批判が会ったなぁ。

 

石川逢篤

あの頃は立て看板と云うのはないんですよ。味、風味と云うことになれば戦前も戦後も一緒だと思います。現在、非常に科学的になっており、以前はもう手加減でね、温度でも現在皆さん一生懸命やっておられまして喜ばしいことです。なるべく泡盛はひと月も置けば本当に立派な古酒になります。

 

花城清用

麹臭が前よりとれた感じはしませんか。

 

新里肇三

それは時代の変遷じゃないかと思います。今の若い人は洋酒とかに慣れておりますから、あんまりクセのあるものには飛びつかないんです。昔から召し上がって居られる方々はその臭み?と云えば語弊がありますが、泡盛独特の匂いと云うのが好きで。

 

花城清用

今の若い連中にね、酒を嗜むと云うよりかアルコールを飲んでいる様なもんじゃないですか。

 

過渡期は過ぎた、嗜む時代

新里肇三

それに近いです。しかしそれも時代の変遷でして、そう云う過渡期は過ぎて、今は酒を嗜む時代に変わりつつあります。と云うのは、その証拠には今まで甲類がものすごく出ておりましたが、今は逆なんですよ。

 

花城清用

実は本当のことを云えば、新聞記者ですーっと居りたかったんですが、ところがあの頃の酒屋はね、もう、さんざん税務署が横暴を極めておった時代で、たまたま主事の席が空いたので、佐久本さんには可愛がって貰っておったから、勿論、今もって佐久本さんの恩義は十分ありますが、果たせないでおります。石川さんにも。

佐久本さんが首里の市会議員をなされている時に、当時の首里市長だった高安さん、県会議員だった粟国さんなんかのお宅に仕事柄出入りしてしっておりましたので、佐久本さんから清用ソーティィケーとご相談があって記者を辞めないで兼務しなさいと云われてやったんです。

そしたら案の定なんです。酒屋は多額納税者でしょう。にもかかわらず、先ず税務署長にいろんなことでお願いに行くでしょう。そしたら長い固い椅子小に20~30分も待たされる状態なんですよ、ヌーガサイと何もしらない僕が云ったら、ウリ アンセー ナラン シガイヤーと云われる。

考えてみると馬鹿らしくなって官僚も過ぎると思ってね、入って行って署長に会ったんですが、後で吉村署長に変わって、注進してせめて応接間くらいあって然るべきじゃないかと、税金はそんなにたくさん納めさせておいていかんじゃないかと、以後改善されましたが、その後、実は吉村丈三に問題が起きたんです。

(これはもう本人も死んだし時効になっておりますので申し上げますが、)大変優秀な青年官吏だったんです。その前に醜税吏事件と云うのがありましてね、酒屋の官吏連中のお食事券が起こったんです。

と云うのは酒屋イジャーニヨ、南蛮小貰ったり、税務署が貰おうと云えば上げない訳にはいかんでしょう。いろんなことを耳にしたんです。

酒屋の連中も不平不満ですよ。カンシェー ナラン ムンナーと思って、三新聞社相談サーニヨ、真相をつきとめて、醜税吏事件としてトップ記事で扱ったんです。ウリカラ問題ナヤーニ、その次に来たのが吉村丈三なんです。

早大出身で、網紀粛正(こうきしゅくせい)しいこと、26歳でした。バリバリ仕事したんです。ところが厄介なことに、年は若いから沖縄に赴任を命ぜられたから結婚して、若いトジ小ソーヤーニ来たんです。通堂に那覇税務署長官舎がありましたが、大学時代に下宿の娘を引っかけたんですね。

その娘と2人の連れと3人で乗り込んで来て、毎日のように娘をどうするかと云って税務署にに押しかけて来るんですね。それで吉村はいつ行っても税務署に居ないんです。私事でそんなに苦しんでいるのを考えてみると可哀想になりまして、記者仲間2人で相談して吉村丈三に会って聞いてみると、実はカクカクでもう自分は仕事をやめて本土に帰ると、ここでミソつけたら自分の一生は棒に振ると云うんですね。

そしたらこちらは冗談じゃないと、若い時の誤ちは誰にもあると、よくよく聞いてみたら3千円慰謝料請求に来ているんですよ。金はあるかと聞いたら千円は貯金が在ると云うんですよ(笑い)。向こうの請求額は3千円でしょう。

 

元旦の拝賀式もフイに

花城清用

あと2千円はどうするかと云うと、だから困っておるんだと云うので友人を紹介して、あと2千円借りて合計3千円女に渡したんです。女金取ればいい訳でしょう。

しかし連れの男が一向に帰らないんです。ね、困りまして、今度は那覇署に行って、友寄探偵と云って名刑事が居ったでしょう。この人に話して警視庁に照合させたら、大日本帝国なんとか党と云って名刺には書いておりましたが、警視庁からの連絡ではそう云う党はありませんと来た訳ですよ。

いいバーグワーと云って友寄探偵が刑事部屋に連れて云ってさんざん拷問ですよ。あの時だから出来たんですね。吾々刑事部屋の隣で聞いていたんですが、じゃ明日帰れと云って、翌日追い返したんですよ。

その後は吉村は勿論新聞社は連絡しあって書かないで、そしたらワッターがイーシチ カネー ナラヌー ヤサヤー、それがケリついたのが12月の30日で、31日ね、是非一席奢りたいと云うことで、大晦日の晩でしよう、明日は元旦だよと云ったんですが、いやもう家内の了解も得たと云うことで3名で松華楼に行って、私は余り酒も飲めないし、花城チヨウコーもサキクエー、吉村はヒミチャーヤタサ、午前4時過ぎまで2人酒のんで、余程うれしかったんでしょう、おう元旦でしょう、税務署は午前10時には拝賀式でしょう、署長イジテークーンヨ、アンサーニー拝賀式ヤナランチムエーテ奥さんも四方八方手を尽くして探し廻ったがわからないと云った調子なんです。1時頃ノコノコ出てきていたが(笑い)。

 

頭が悪いなぁンチョー

花城清用

それから何かあるとテーフワサーニヨシグ拝賀式ムチイジヤスンドースサヤ、アトカラワッターガイーシヌンクイハイハイサーニチチユタンヨー(大笑い)。あれからねシカラーサイネー時々新聞社に来よったよ、6時頃からノコノコと、遊びに行こうンチョー、ワッターまだ仕事中でしょう。まだ仕事ですよと云うと頭が悪いなぁンチ、待っておくから早く書けと云って。

 

吉村署長に胸像おくる

佐久本政良

吉村と云う人はいろいろ話題の多い方でしたね。酒造界にとっては非常に貢献した人物だから、石川さんと2人で上京した折りにお礼に行こうやと云うことで、あの人が仙台の税務監督局の総務部長時代に行ったんですよ、そして帰って来てから胸像を作って、札幌の税関長時代に持って行ったんです。

 

新里肇三

出世したんですね。

 

南方進出を図れ

花城清用

さっきも一寸申し上げましたがね、もっと協力態勢されて生産の統制、販売の態勢を確立して県内は自由ですが海外となると宣伝もしなければならないし、相当金がかかるし、三井とか三菱みたような海外に出先機関をもっている商社をつかまえて南方あたりに出荷出来るようにしなければならないと思います。

これもみんなが協力しないと出来ないことですが、それからもうひとつは日本は今、米が余っているんでしょう。トン当たり100ドル前後で買っていると云うでしょう。放出米の拡い下げを陳情すると、琉球政府にもお願いし、まぁ政府だけではなく業者が運動すれば出来ると思うんです。

 

鹿児島の県外移出の1割足らず

新里肇三

今ご先輩の方々からあくまでも協力が第一だと云うことは身にしみて感じます。やっぱり色々の紆余曲折があって、雨降って地固まる式で、共済会をつくるとか、窓口一本化とか、今一番びっくりしたのは石川さんの積立金が1人で五十何万もあったと云うことです。

今のお金にかんさうると、おそらく4~5万ドルにはなると思います。果たして今現金をそれだけ持っている酒造業者があるか疑問に思い、又びっくりしているところです。

それであくまで行きつけるには各人の心構えとか、協力的な精神がなければ、それから大きな人たちの譲れる気持ち、そして小さいのを強いて潰そうとするよりも、お互いに生きようと云う気持ちがなければ絶対にこれだけのことは出来ないと思います。

そのために出来た泡盛産業だから、吾々業者は会社を利用して原料の一本化、輸出の一本化を近き将来実現させることによって、大きく伸びていくんじゃないかと、例えば今度の日本への輸出だって、万博でもあれだけPRすれば結構お得意先が増えていくと、そう云うことを考えるときに、石川さん方の県外へのあれだけの宣伝をなされたことが解ってくるような気がします。

今後吾々も協力態勢を固めて、その方向に是非行きたいと思っています。それで戦前45度で2万石近くも出したと云うことは、今吾々は大きく恥すべきじゃないかと思う訳です。現在、恥ずかしい話ですが、年間を通じて35度の酒を僅か2千石足らずしか出ていません。

それもお互いにただ競争にばかり、いい意味での競争はいいんですが、値段の競争をすることによって赤字を出すだけで宣伝の余裕すら今現在ない訳です。それで協定はしたものの、裏ではリベートとかいろんな問題が出てくるもんですから、どうしても宣伝まで手が廻らないのが現在の状態です。

吾々としては一日も早く一本化して強力な協力態勢にもっていけば必ずや戦前並みの輸出ができるんじゃないかと。

 

鹿児島を見習うべき

新里肇三

今考えますのに、鹿児島やや熊本、福岡あたりに行って鹿児島の球磨焼酎、芋焼酎と比べて優るとも絶対に劣らないと云う自信はもってまいりました。ところが鹿児島県の現在を見ると、県外移出が1万3千石まで伸びています。

僅かその1割にも足りない程度ですから、その分だけ戦前出た分は鹿児島の方にむしろ食われているんじゃないかと、まぁそう云うと御幣があるかもしれませんけど、それだけ鹿児島の酒造会社の方が一生懸命になってPRに努めれおられると云うことは、吾々はうんと見習うべきじゃないかとつくづく感じます。

それから今、花城さんが云われましたように、古米の件もどうせ復帰すればいずれは古米を使わされるんじゃないかと、そう云う覚悟は出来ていますけど、だからと云うて必らず
古米使う訳でもないし、安ければ、現在利用できる安い米も使いたいし、それからいずれは古米使わされるから、今から研究する必要もあるし、是非古米の方も研究していって、一日も早く、又古米の利用とか、努力したいと思います。

 

原料米の研究もやっていく

新里肇三

今の現状としては、あの古米よりも、タイ砕米が安いんです。又ビルマ米にいたってはまだ安いんです。だから現在吾々がきいているのは90ドル内外で仕入れているんです。しかしタイの砕米がいつまでも安いとは限らない訳です。

 

石川逢篤

飼料米はまだ安いと聞いておりますが。

 

現在生産高は約4万

新里肇三

飼料米は古々米なんです。酒屋の米になりますと古米になります。一本化する前にお互いの協力がないと絶対できないんです。

 

石川逢篤

多い人がね、遠慮して貰わんと。

 

新里肇三

そうです。ゆずる気持ちがなければだめです。

 

佐久本政良

現在の生産高は3万いくらかでしょう?

 

新里肇三

今は4万です。

 

佐久本政良

当時は45度にして1万いくらでしょう。

 

浜元朝起

長時間に渡り、お話くださいまして本当にありがとうございました。今後ともご先輩方の色々な面でのアドバイスをお願い致します。それではこの辺で。

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