人物寸評② 稲嶺一郎氏(昭和45年7月30日)

  • [公開・発行日] 1970/07/30
    [ 最終更新日 ] 2016/01/23
   

“鯨は日本海や東支那海のようなちっぽけな内海では泳がず太平洋で遊水するものだ”これはは或る政治家が稲嶺一郎氏を評した言葉である。1970_7_30_2nd_person-brief-review_inamine-ichirou又或るジャーナリストは氏を評して“いぶし銀のような底光りのする男”と語っていたが、両者共ずばり氏を云い得て妙である。

前者は余りにもスケ一ルの大きい構想と理論化稲嶺氏を猫の額程の島国沖縄で活動させるより、もっと広い舞台で思う存分活動させてみたいと云う意味であり、後者は幼い頃から培われてきた氏の人間味を指しているのであろう。

構想のデッカさと理論の正しさは氏の過去がこれを如実に物語っている。すなわち1951年すでにこれからの沖縄経済の方向が氏の頭の中に設計されていたのである。

経済発展の必須条件に油脂燃料の大量消費は経済のABCであるが、それさえも当時の経済人は事大主義的な考え方で、なかなか琉球石油KK設立の株募集は思うようには捗らなかったと云うが、遠く北部、南部と徒歩で株集めに奔走しながら絶えず悩裡は未来図でいっぱいだったであろう。

当時、いやいやながら出資した人も今では稲嶺一郎の正しかった経済理論に感服していることだろう。

氏は昭和11年(1936年)に国家から選ばれて2ヶ年間欧米視察旅行をしている。その後、昭和15年(1940年)満鉄のバンコック事務所長、参事、調査役を歴任し、終戦争を現地で迎えているが、一時捕虜の身となって収容されている時に、当時親日派現インドネシアのスハルト大統領と寝食を共にしたことが後日外交権のない琉球政府の対インドネシア外交を成功させた大きな力となったことは、吾々の記憶にまだ新しいことだ。すなわち、スハルト政権との間で沖縄の遠洋マグロ漁業権を認めるよう民間ベースで成功させたのである。

俗物には広げっぱなしが多いが、稲嶺一郎氏は広げたものをひとつひとつ包んでいく着実な実行力が伴っているところが信頼される所以である。ちなみにこれまでの広げた幾つかの事例を掲げてみよう。

昭和25年(1950年)に沖縄にひきあげてきて、先ず琉球漁連会長になったが、当時作成した氏の水産白書が今日の沖縄援用漁業の基礎となっており、昭和26年(1951年)には琉球石油の創立をみた訳だが、琉石の功績はすでに周知の通りであり、昭和28年(1953年)琉球海外移住協会会長を兼ね、南米移民促進のため使節として南米に赴き、ボリビア政府と移民協定を締結して、人口問題解消に大きく貢献、昭和35年(1960年)には東村の琉石産業開発研究所を設立し、熱帯・亜熱帯植物栽培の研究を続け、現在では農家や一般にも大きな福音となっている。

又、沖縄はアジアの十字路であり、その地理的条件を生かした加工貿易や重化学工業を興さなければならない、そのためには臨海工業地帯を造成する必要がある、と云う理論から昭和35年(1960年)以降、遠浅のサンゴ礁をもつ沖縄が有利であることを本土の埋め立て地を視察のうえ熱心に説いてまわったが、はじめのうちは疑問視する向きもあったが、その後北中城、宜野湾、糸満等で土地造成が行われるようになったのである。

去る昭和44年(1969年)には、東洋石油の設立、南光化木KKの設立等、以上は氏のほんの一面であるが、とにかく自他共に許す沖縄経済開発のパイオニアはとどまるととろを知らない。こう云う稲嶺一郎流の独特な経済持輪と実行力が外交権もない島国神縄が一国の大統領を向うに堂々と協定を締結させた大きな偉大さがあろう。

最近、氏は若い者によく“慶長以前にもどれ”と説いている。慶長以前の沖縄の人は非常におおらかで勇気があり、発展的な面があった。しかしそれ以後内攻的になってきているが、それでは将来の沖縄の発展は望めないと云う。

北部の本部町に生まれた稲嶺一郎氏は、決っして経済的に恵まれた家庭で育ってきた訳ではない。沖縄二中を経て早稲田大学に学ぶ途中、とうとう学資が続かず勉学を投げざるを得ないところまで追い込まれ、当時の本部町が学資金を出して卒業迄こぎつけたと云うエピソード等はあまり知られていない。

氏は任命主席時代、その都度噂にのぼった人物だが、こう云うスケールの大きい人が首席になったら琉球政府の予算の方が追っつけ得なかったであろう。崔伏十年と云が大器はやはり大洋で泳がした方が思う存分その能力を発揮できるだろう。

晴れて天下の桧舞台(ひのきぶたい)、参院選に出馬が決まった。当年61才、政治家としても正に前途洋々たる適齢期と云えよう。

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