「節酒会規約」なる珍しい文書を見つけた。持ち主は那覇市樋川で辯護士(弁護士)を営む島田良安さん。島田さんは旧久志村大川(現名護市)の出身で母方の実家に保存されていたもの。
第1条から第13条まであって「大正8年2月1日ヨリ之ヲ實施ス」となっている。今から82~3年も前のもので、活字になったものではなく肉筆の資料は私も初めてである。
島田さんは、
「その当時この規約なるものがどのように運用されていたのか、聞いてみないと解らない」
と興味深く話している。
その昔、金武間切(まぎり)には昼間から泡盛を飲む者も居て辻々に節酒礼を立ててあったという話は聞いていた。私が興味深いのはその当時の原料は何であったか、ということである。
王府時代首里3ヶ村にあったとされる焼酎40職の次男3男たちは後の明治新政府の酒造法により酒造免許を得て、遠くは奄美群馬や各離島、中南北部へ独立して酒造りを始めている。
その頃から原料は総べて米だけであったのか。金武間切や久志間切は昔から米どころとして知られていた所だから、おそらく米がすでに使用されていたのではなかろうか。
それ故に製造が豊かで、米作収入で農民の暮らしむきも良かったのでついつい飲み過ぎる人も居たのであろうか。そのことはその祖先に聞いてみなければ解らないことではある。いずれにしても「節酒令」なるものが王府のお膝元にもあったそうだ。
有名な3司官羽地朝秀は首里のサムレー達が時として飲み過ぎる戒めとして発令したとされる。
因縁めいて面白い話になるが、この羽地朝秀の屋敷跡が首里の玉那覇有祥瑞穂酒造社長宅の屋敷の西隣にある、と言われていることである。
先代つまり有祥社長の父親有義さんは希代の酒豪といわれた人物であった。6尺豊かな大男で県立第3中学時代に沖縄角力(すもう)で頭角を現し、横綱になり、そして現役引退した潔い男としても有名である。
この人が社長でバリバリ元気な頃のド偉いエピソードがある。この人をよく知る首里の男から昔聞かされた話はこうであった。
トゥンジムイ(首里鳥堀町)に事務所とびん詰め工場があった頃、其処で仕事を終えてから1升びんを平らげて末吉町の自宅まで歩いて帰り、そこで3合びんを飲み干したというのであるから、唐の漢詩ではないがまさに酒豪だったわけだ。
この人のエピソードなどについては別の項に紹介したい。
娯楽に乏しい昔々の人達にしてみれば酒は最も身近に在って、村の諸行行事には欠かさない潤滑油的役割を担っていたに違いない。そういうことは現代にも当てはまることではある。
しかし…である。
度が過ぎると前後の見境を失うことになる。昔々首里にある自分の松林を泡盛タワカシ(2升)と交換した男がいたという。その松林は今も存在するが、こうなると取りかえしのつかない羽目に陥る。
…晩秋である。
読書の秋、人恋うる秋、馬肥ゆる秋、食欲の秋とくればまさにうま酒の秋である。若山牧水は、「酒は静かに飲むべかりけり」と謳った。
が、私なんぞは毎晩が「晩秋」である。
時に犬になったり、馬になったり、豚になったり豹変するのであるから紳士的な愛酒家には入らない、と独りでに…『自慢』している。
時すでにおそしではあるが、自分の心の中に「節酒令」なる立て看を打ち立てよう。
2001年12月号掲載
※間切(まぎり)とは琉球王国時代の行政区分のことを指します。