八重山石垣市字新川の請福酒造有限会社(漢那憲二社長)が去る12月2日「八重山泡盛の20世紀と21世紀を楽しむ会」と銘打って多彩な儀式を行った。私も取材で石垣市へ飛んで行った。
はじめに古酒蔵のお清め式が行われ、八重山泡盛座談会へと進んだ。面白く興味深かったのはミードゥンピトゥ・サキタリヤー(女性社氏)の座談会だった。(詳細は小紙譲界飲料新聞第131号掲載)。
請福酒造は今年創業50周年を迎えている。この大きな節目に、このようなセレモニーを開催して消費者に広く琉球泡盛が何たるかを知らしめる、ということは大きな意義がある。
勿論、泡盛業界では初めての試みである。参加していた約100人の男女消費者たちは皆、真剣なまなざしで座談会に耳を傾けていた。
請福酒造の2階には泡盛博物館があって、昔の泡盛造りの機具が揃っている。これも泡盛メーカーでは唯一の存在だ。
去る12月16日には多くの消費者を招いて、この機具を用いて昔ながらの手作業で蒸した米に種麹を混ぜ、長方形の小箱に広げて寝かせ醗酵させる作業を消費者と一緒にやっている。
蒸留は12月31日と元旦に行うそうだ。実に立派な姿勢である。消費者に体験させてより身近に泡盛の存在と、その造りの苦労を知ってもらう、ということは大きな見直し運動に直結する。
ところで、請福酒造の創業者漢那憲副社長(故人)と私は馬がよく合った。今でもそうだが年に2~3度は石垣島へ取材に行くが、当時もそうだった。請福酒造へ顔を出すと、「仲村君、どうせ広告も取りに来たんだろう、集金のためにまた石垣へ来ると飛行機賃が大変だから領収書を書きなさい」。
こちらの腹の中を見透かしていた。喉から手が出るほど広告料は欲しい訳だから喜びはこの上ない。いわゆる「前金」である。次は「今晩一緒に食事しよう」であった。食事とは飲みに行こうということであった。憲副さんにとって私は情報源でもあった。沖縄本島に出て来る時は電話が掛かった。栄町の料亭華やかなりし頃は2階へ上がってドンチャン騒ぎしたこともあった。
そんな彼が、或る石垣島取材の折り、石垣農協(当時)の建て直しに行くという。
「酒造場は順調ですが、あんたは泡盛に生きるべきだと私は思う。それに莫大な赤字をかかえているというじゃないですか」と私が進言しても、「憲仁(現社長)も1人前になったし、酒屋は彼に任そうと思う」と聞き入れてはくれなかった。
しかも月給なし、ということだった。つまり、無報酬で行くというのである。憲副さんの次の言葉で私は沈黙した。
「子孫たちが将来うちにはこんなおじいさんが居たんだよ、と誇りにしてくれたらそれでいいじゃないか仲村君」
文字通り憲副さんはそれに命を懸けたのであった。憲仁社長と恵子専務が今、立派に跡を継いでいる。
こんな事もあった。今から25年前、八重山で泡盛同好会を発足させることになった。発起人代表は新垣信行さんであった。
ところが発会間近になって泡盛メーカーが出品酒はみんなレッテルを覆いかくして出す、というのであった。
そんな時に憲副さんは「そうだったら〝請福″だけでやったらどうですか」と新垣さん達に言ったというのである。背丈は私と全く同じで小さかった。
しかし、肝っ玉は大きかった。当時の石垣税務署の関税課の或る人は憲副さんをして「グナータンナファ」と稱(しょう)していた。これも昔日の思い出となった。わが愛すべき憲副兄はその業界では実に着想がうまかった。
今、請福酒造では八重山産の米で泡盛を造り、石垣市内外でこのまろやかな味が人気を呼んでいる。
八重山へ旅する際にはぜひ請福酒造の泡盛博物館に足を運んで欲しい。きっと先人の苦労がしのばれることであろう。そして、人のいい憲仁社長が取って置きの〝請福″のクースを味見させてくれるかもよ。
2001年2月号掲載