私が「泡盛の元祖探究の旅」の第1歩をタイ王国に決めたのは、琉球歴史の大家・東恩納寛惇氏の著書『黎明期の海外交通史』の中の「泡盛雑考」の一文に触発されたからであった。その中で氏は小見出しで「泡盛はシャム酒なり」とあり「私が千年シャムに行った時に、偶然シャム國産の『ラオ・ロン』と云う酒を賞味する機會を得たが、その香気と云ひ風味と云ひ泡盛と全然同一であるに驚いた。私はその見本を一罎首里の酒造組合事務所に送って鑑定して貰ったところ、泡盛と似ているばかりでなく、むしろ古酒に匹敵する風味があると折紙をつけて呉れた。『ラオ・ロン』と云ふ名もシャム語で焼酎の意味である。」(原文まま)。居ても立っても居られない衝動にかられての旅であった。小紙ではこの3回の旅を終え、各々帰国後座談会を開いているが、その時の各人の意見提言等は省略する。
さて、第1回目の旅にはわが女房も同行した。2人共海外への旅は初めてだったが、あの当時1人当たりの旅費が15万円。4泊5日でこれだけの大金は勿論借金しての旅立ちであった。妻が喜んだのはいうまでもないが、こちらが帰国後大汗をかいたのも事実であった。
いよいよ3泊目のタイ王国の夜は明けて香港へ飛び立った。宿は実に高層ビルの21階で、その晩は船上レストランでの夕食を楽しんだ。が、タイ国で飲み過ぎて最早誰1人として我が琉球泡盛を持ち合わせていなかった。味気ない酒類を口にして、しみじみと我が琉球泡盛の風味の良さを思い知らされたものである。
宿に帰って21階の部屋で女房と2人っきりで旅での四方山話に耽っていると室内電話が鳴った。漢那憲副さん(現請福酒造有限会社の先代社長・故人)であった。どうも今朝タイ国の洋服店で受け取った背広のズボンが長くて、君のと間違えているらしいと言うのである。私は今だ着け試していませんがということで漢那社長が持って来たズボンと私のを比べてみたら全く同じサイズだったので、2人顔を見合わせて大笑いしたのも昔日の思い出として悩裡をかすめる。漢那社長と私は背広も同じでよく馬が合う間柄で、石垣島の工場を訪ねるとその晩は必ず飲み屋に誘ってくれた。飲むほどに泡盛に対する情熱が迸り意気投合したものである。この愛すべき社長も今は居ない。2代目憲仁社長に大きく期待したい。
この憲副社長が部屋から帰って間もなくノックして入って来たのが慶佐次興栄さん(元名護酒造所代表者)だった。寂しかったのであろう。泡盛は飲み尽くしてカラからだから、タイ国のブラックキャットという平たいびん詰めの3合入りを2人してチビリチビリ飲みながら旅を語り合ったのであるが、これが薬品臭の強い酒だった。しかし、此処にはそれ以外の酒は無かった。結局女房は遅くまで付き合わされる羽目になった。
タイ国の第2次世界大戦前の国名はシャムで、黄金色に輝くという意味。大戦後タイ国と改められタイ語でムアンタイ、すなわち自由な人々の国という意味だそうだ。「おはよう」「こんにちは」は確かサワディカと言った。「おそらく中国からではないでしょうか」。私が質問したタイ国の酒造技術の歴史についてのあの工場長のひと言が今でも耳に残る。
2000年4月号掲載