前号で、26年前と書いたが27年前に訂正する。敗戦直後、与那国島は台湾との密貿易が盛んな頃は人口が5000人を越えた。それが27年前に私が行った時には2986人になっていた。
「泡盛1升の代金が1人前の男の日給に相当した時代から、やたら賃金だけが上昇し逆に酒価は以前のまま。農民のつくる作物は安くなるばかりで、豚肉は1ドル以上値上がり、本場といわれながら豚肉より高くなっている魚。
かといって魚を食べないわけにもいかず」(久部良勇吉さんが語る当時の述懐) 与那国の〝花酒″は当時は消え、1升びんと633㎖(ビールびんの大きさ)の2種類だった。1升びんの30度((卸値1ドル5セント・小売り1ドル15セント)、30度、40度、45度とあった。1升が1ドル80セント、コカコーラがなんと25セント(本島ならば10セント)だった。
キャップシール制になったのが昭和47年1月10日。それ以前は計り売りであった。 さて、翌日は租内からバスに揺られて久部良の長浜靜一郎さんの製造工場へ行った。小さな蒸留場は、昔のサーターヤー(製糖場)のような掘り込み式であった。
長浜さんは町会議員をつとめていたが、首に白い包帯を巻いていてどう見ても病弱な感じの細身で、取材できる状態ではなかった。早々に切り上げてバスの止まっている所まで来てみると、故障で動かないという。万事休す。祖内まで歩くしかない。ゆうに4キロ以上はあろう。それが今と違って右手は延々と続く雑木の密林であった。
左に波の音を聞きながら1人黙々と細い道を歩き続けた。4月といえどもここはもう真夏の暑さであった。と、人っ子1人見えない道路の前方約70メートルのところに右側の密林から突然大きなドス黒い物体が現れ、道路の真ん中で止まって動こうとしない。八重山で聞いた話では与那国島には猛毒のハブは居ないということだが、一体これは何であろうか。私は身の毛が弥立ちその場に躊ってしまった。
何十分位経ったであろうか、ようやく祖内の方からトラックのエンジン音が聞こえてきたら、その大きな物体はゆっくりと左側へ消えていった。夏の真っ昼間に冷汗をかいた思い出が残るが、今もって不思議である。
ようやく与那国空港まで辿り着いて、売店でカラカラになった喉を潤そうとコカコーラを注文すると、なんと1本25セント。ポケットにそんな余裕はない。トイレに駆け込んで水道水をガブガブ飲んで生気を取り戻した。
(1999年12月号に続く)
1999年11月号掲載