先号のこの欄で小紙と書いたのが「小紙」になっていたのは校正子によるものなのか定かではないが、ま、酒の話だから泡盛に免じておこう。
ところで小紙・・が創刊されたのが1969年5月17日(土)である。創刊号の頃が写植文字の出始めであった。今から30年前の話である。創刊号の色は草色で刷ったのであるが、それがいけなかった。雨季の真最中であった。オンボロの中古車1台とて買えない貧乏新聞だから、当時あった首里バスに乗って真っ先に行ったのが瑞泉酒造だった。
私は創刊の喜びで昴奮し、さぞ喜んでくれるだろう、と秘かに期待したが、佐久本政敦社長当時(現会長)の次の一言で愕然とした。 「征幸、イヤーシンブンノーミーヌヤディー、ユマランシガ」と。 「君の新聞は目が痛くてとても読めないよ」という意味である。
活字をグリーンにしたのにはそれなりのワケがあった。
琉球泡盛の原料は100%米である。私は青々とした稲のイメージを表現したのであったが、読む側にとってはそれは苦痛だったのである。草色には黄色が混合されるので乾くとその黄色が強烈に反射して人間の目を疲れさせる結果となる。その晩は泡盛を独酌しながら改めて紙面を眺めていると確かに自分でもいやになった。第2号から現在のような墨にしたのは言うまでもない。
佐久本政敦さんは実に心の広い人で、私がこの新聞を創刊する前の沖縄グラフ社時代から、よく瑞泉酒造には出入りしていた。帰り際に政敦さんは私に必ずこう言った。「征幸、たまには泡盛を飲みなさいよ」と。決して頭から飲めよ、とは言わなかった。そこにこの人の心の深さを見る思いがした。
首里の三ヶ崎山の人間らしく、昔は短気ぽい所もあって仕事の上でお叱りも受けた仲だが、爾来この人の薫陶を受け続けて今日に至っている。公私共にお世話になっている人である。 昨年の11月21日には那覇グランドキャッスルで約800人をお招きして、新商品の試飲発表と政敦さんの自叙伝『泡盛とともに』のお披露目パーティが開催され盛大を極めた。感激したのは受付で祝儀を出そうとしたら、今日は祝儀はご遠慮下さい、であった。
たらふくご馳走になった上に新商品の「翔」と自叙伝もお土産にいただいた。お年は私が遠く及ばなく数えきれない程だが、泡盛業界の最長老として現役なのは私にとって心強い存在である。
1999年4月号掲載