《はじめに…》
「よもやま話」は私が現在でも喋っているラジオ沖縄の番組から付けたものである。もう、かれこれ6年にもなるが、こと泡盛に関する限り話は尽きることはない。しかし、この誌面ではラジオでトークする内容とは極力だぶらないように話を進めてみたい。敗戦後の琉球泡盛の衰退を目の当たりにしてきた生き証人のひとりとして書き残して置くことは、あながち無意味なことではないと思う。居酒屋やご家庭で泡盛を酌み交わしながら肴にしてもらえたら幸いである。
《歴史の証言》
琉球泡盛はご承知のように王宮文化であるが、去る「大東亜戦争」では幾十万の犠牲者と共に一大被害者である。敗戦の一時期は沖縄でも密造酒で人びとは憂いや疲れを癒したものであるが、原料は何でもよく唐芋は上等のほうで、ソテツでも造っていた。
イクサですさんだ人々の姿が目に余ったのであろう。1946年4月、密造酒を止めさせる為沖縄民政府財政部に「泡盛を製造して民間に配給せよ」と指令した。いうところの官営工場の始まりである。これは1949年1月1日付けで民営工場移管になるまで3年間続いた。個人で製造免許が受けられるようになったためである。
佐久本政敦さん(瑞泉酒造株式会社会長)の証言によれば、1945年頃はソテツや米軍のPXからのスポイル品のチョコレートでも造った、という。当時150件ぐらい認可を受けたが2~3年でだいぶ減った。製造石数が年間8石、それを下回ると免許が取り消された、と語る。食べるのも無い時代だったが、泡盛はどうしても米ではないとダメだということで、商社を通じてビルマ米、シャム(現タイ国)、米は入るようになった、と証言している。米の原料は入るようになってからも歩溜り悪く、米1合から酒1合がでればいいほうで資金も無く、設備もできず、したがって貯蔵も出来なかった。
黒こうじ菌も種こうじ屋ができる以前は各工場で種こうじをつくり、出来が悪い時には他の工場に行っていい種こうじを分けてもらって造った、と佐久本さんは述懐する。琉球泡盛のどん底時代の話である。敗戦後の琉球泡盛の低迷はまだ続くが、ようやく科学的に品質向上へ本格的に改良されていくのはわが沖縄県が本土へ復帰する前1年からである。敗戦後の琉球泡盛の黎明期である。
(つづく)
1991年1月号掲載