カテゴリー:読む
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戦災と戦後の世相の変転、地形の変貌、また年代の経過で辻と西武門の関係、特に〝西武門ヌウェマヤ、ウ伴サビラ〟を真意まで解し得る世代が少なくなった。やがて文字通りに表面だけの解釈に終わる時代が来そうな気配への防備を備えておこ…
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首里の方で初代東京泡盛同好会会長だった新崎盛敏さんというインテリが居た。新宿の泡盛居酒屋あたりでも一タ酌み交わしたこともあったが、長年東京に在りな がら幼年の頃のウチナーが実にはっきりと憶えていた。この人が面白い話を書い…
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国際通りの牧志交番所横からちょっと入った所の左側に、小料理店「小櫻」がある。つまりグランドオリオンの真後になる。この通り名を“龍宮通り”と称している。この店は、今年で開店52年にもなり、沖縄では最も古い老舗である。私がこ…
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【2007年2月号の続き】前号で宮里武秀さん(故人)の言葉に唖然としたと書いたが、それは泡盛酒が持つ全く未知の世界であり、せめてそれを汲んで1升びんに一杯詰めて県の工業試験場で分析をさせたかったからであった。その中にはど…
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今でこそ泡盛の原料はタイ米で沖縄産の米も若干使用しているが、38年前の小紙醸界飲料新聞の創刊の頃は唐芋やザラメが主原料であった。いや黒砂糖があった。わけでもザラメは長らく使用されていた。それの卸元は那覇市松山の卸問屋街の…
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何回でも書くが、昔は琉球泡盛の呼称を「シマーグヮー」と言っていた。これをウチナンチュウは自県産酒を蔑視して飲まなかった云々と敗戦後このかたの文献には書いている。これは読者や業界及び関係者も総てそのような見方をし又、そのよ…
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【2006年11月号の続き】ここに昭和53年2月1日付の小紙に「PTA」についてのコラムが掲載されている。ずい分昔のことであるが、書き手は那覇市立松島中学校の時のPTA会長、佐久田繁さんである。この人、本職は月間沖縄社の…
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【2006年10月号の続き】金城幸男 醸界新聞がよく25年間も頑張ったことに先ず敬意を表したい。またこの業界紙に協力して広告を出している業者にも同様に敬意を表します。が、この新聞を読みたいという人が居ますが、そこには配ら…
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【2006年9月号の続き】稲嶺盛園 仲村君、吾々が今泡盛泡盛いっていますが、例えばオリオンビールの創業者具志堅宗精さんの商魂を学ぶべきで、金城さんの話にもあるわけですが、僕が東京へ行った時、或る泡盛が4~5本並んでいる店…
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【2006年8月号からの続き】名嘉正八郎 護佐喜お宮ヘ4~5人で水筒持って行って飲んだ。カラワタ(空腹)にカラジャキ(肴なし)ですから、お宮の急階段が下りられない。大嶺実清君(現芸大教授)に担がれて帰ったが、あれが酔いの…
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