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前号で、26年前と書いたが27年前に訂正する。敗戦直後、与那国島は台湾との密貿易が盛んな頃は人口が5000人を越えた。それが27年前に私が行った時には2986人になっていた。 「泡盛1升の代金が1人前の男の日給に相当した…
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今から26年前、初めて与那国島へ泡盛の取材に行った。国産のYS11機が就航間もない頃だった。高い運賃をどう工面したのか今もって解らない。11歳の次女由実と妻の2人に那覇空港から見送られ旅立った。飛び立って遥かなるまで2人…
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敗戦直後の1946~7年頃の話であるから半世紀以上前の、随分と昔の事である。 その頃筆者の1番上の兄は田井等高等学校(現名護高校)本部分校の英語の教師だった。或る夏の日曜日、兄の先輩格の文学教師が訪ねて来た。同じ本部町出…
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小紙が去る5月で創刊30年を迎えた。紆余曲折の30年であった。創刊時は65の泡盛製造工場があった。その間に本島北部だけでも6場が廃業に追い込まれている。県下では実に19場と覚えている。その創業者たちの悲壮な顔が瞼に浮かぶ…
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「沖縄の酒は、阿波根朝松先生の『沖縄文化の歴史』によれば既に1300年前からつくられていたようである。しかし当時の酒は製造法が現在の泡盛とは全く異なっており、本土の清酒の先祖ともいうべき濁酒(どぶろく)に似たもので、ウン…
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私たちの年代が青春時代から今日まで泡盛を愛飲し続けてきているのは、何もそれがうまかったからではない。ただ1点、カネがなかったからである。輸入ウイスキーの全盛時代のあの頃、われら泡盛人種はすごく蔑視されたものである。 今の…
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私の酒泡盛との出会いは古い。 小学校の低学年時代、父は年に2~3回ほどマチヤグヮー(雑貨店)に酒買いに行かせるのであったが、宵の帰り道椰子とそっくりのフタを開けて嗅ぐのがたまらなく好きだった。貧農だった父はカネがなかった…
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先号のこの欄で小紙と書いたのが「小紙」になっていたのは校正子によるものなのか定かではないが、ま、酒の話だから泡盛に免じておこう。 ところで小紙・・が創刊されたのが1969年5月17日(土)である。創刊号の頃が写植文字の出…
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小誌は創刊号から第7号で1周年を迎えている。その1周年記念号に「琉球泡盛今と昔」という大見出しで座談会を開いている。 出席者は石川逢篤(元泡盛製造業者=故人)、佐久本政良(咲元酒造合資会社先代社長=故人)、花城清用(元…
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私が新聞を創刊した1969年に68あった泡盛製造工場は、1970年には57場となり、現在は46場一協同組合となっている。過去29年の間に22場が戦いに敗れ、消え去ったことになる。敗戦で無に帰した琉球泡盛だが、業界の努力に…
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