河口 仲村征幸さんとはどれぐらいの付き合いになるんですか?
土屋 オヤジ(仲村さん)とは1972年にうりずんを開店した当時、客として飲みに来たのが最初だから40年以上の付き合いになるねその時新聞も持ってきてて、新聞は創刊後3年くらいの時期だった。
河口 その当時の新聞の印象はどうでしたか。
土屋 オヤジは泡盛にとても自信を持っていたんだけど新聞の広告は全部輸入ウイスキーだった。それがすごく気になってね。そんなに泡盛に自信があるなら泡盛新聞にしたらどうだっていう話をオヤジにしたんだよ。そしたらじゃあだれがスポンサーになるかって話になってね。当時は泡盛が全然売れない時期で、当然広告もとれなかった。広告をお願いしに回ってもみんな逃げまわる状態だよ。
泡盛専門店は3ヶ月保たん
河口 当時うりずんの方はどうでしたか?泡盛専門の店で始めたんですよね?
土屋 そう。当時沖縄に57社の泡盛メーカーがあると聞いて、びっくりして泡盛専門の店を作ろうと思って始めた。ところがオープンしたら客がまったく来ない。食えないので女房と二人で弁当を売った時期もあったよ。3年くらいは昼時に会社をまわって弁当を買ってもらって生活していた。当時の飲み屋はみな輸入ウイスキーばかり。バーにも居酒屋にも泡盛は全くなかった。問屋に「泡盛専門店なんて3ヶ月ももたんだろう」と言われたよ。そもそも、問屋にさえ泡盛がない。今からすれば、泡盛業界はゼロというよりマイナスの状況だね。当時は57の酒造所があっても、那覇で手に入るのは瑞穂と瑞泉のラベルの泡盛ばかり。実は多くの酒造所がこの二社に泡盛を桶売りして、瑞穂と瑞泉のブランドで販売してたんだよ。そうすると、業界に瑞穂グループと瑞泉グループみたいなのができてて、僕は店をやり始めて5年くらいかな、この二社に正月パーティーに呼ばれるようになって、そこで瑞穂グループはこの人たち瑞泉グループはこの人たちみたいなのが分かるようになったんだよ。離島の酒なんて那覇では全く手に入らなかった。問屋に頼んで手に入るのは輸入ウイスキーと瑞穂と瑞泉。だから離島に行く人にはとにかく一升瓶を買ってきてくれって手当たり次第に頼んでいた。
信念の強い人です
河口 泡盛が世間に認められ、お店が軌道に乗り始めたのはいつごろからですか? 土屋 うりずんでいえば、開店して7、8年後くらいから。グリーンボトルみたいな化粧品が出始めて、バーなんかにも少しづつ泡盛が置かれるようになっていった。
河口 土屋さんからみて、醸界飲料新聞が業界に認められたのいつぐらいからだと思いますか?
土屋 今でも十分には認められてないと思う。どこのメーカーもこの新聞には今でも逃げ腰でしょ。
河口 それはなぜだと思いますか?
土屋 メーカーに聞かないと分からない。何で逃げ腰なの?嫌うのって?ただぼくがオヤジを見ててすごいなぁと思うのは、「メーカーに対して、泡盛はメーカーだけのものじゃなくて沖縄のものだ」と言い切るところ。あれは信念だね。ぼくなんかメーカーが造っているからメーカーのものだと思っていた。
泡盛居酒屋の経営者が他県のビール飲むとは何事か
河口 これまで仲村さんと付き合って、意見が合わなかったりケンカをしたりしたことはありますか?
土屋 何度もあるよ。どっちも短気だから。特に泡盛に関しては。
河口 具体的にはどういったことで?
土屋 オリオンビールを飲まないで他のビールを飲むと、ほんとに怒ったね。泡盛売る人が県外ビールを飲むとは何事かと。 古酒づくりなんかは、ぼくはオヤジより上かなと思っている。ぼくの方が何倍も多く古酒を育てて、人に飲ませてきている。そこは譲れない。それ以外は、またケンカになるからオヤジが死んだあとで(笑い)。しかし、このオヤジ百まで大丈夫だな。
河口 仲村さんはこの40年で変わりましたか?
土屋 ぼくからみては変わっていない。そのまま生きてる。逆に言えば相当無神経な人かなぁと思うよ。相手がなんと思おうが関係ないという神経の持ち主かもしれない。メーカーが新聞に逃げ腰なのもそこにヒントがあるんじゃないかなぁ。
河口 それは泡盛メーカーにもっとすり寄れってことですか? 土屋 逆にもっと突っ込んでほしいわけよ。この新聞に広告を載せないと大変なことになるって思われるくらいに。 実際に提案したこともある。部数をもっと増やすべき。何千部発行しているか知らないが。 しかしヤマトに郵送するのも県内で配るのも確実にやってますからね、その辺は誰にも出来ない事だね。 〔取材を終えて〕 那覇市安里で泡盛と琉球料理の店「うりずん」を経営する土屋實幸さんに醸界飲料新聞と仲村征幸さんについて語ってもらいました。 〔聞き手・河口遊撃記者〕
平成25年12月21日掲載記事