【2005年12月号の続き】
先ず順序としては本島北部の宜名間酒造所からいくべきであるが、「よもやま話」だからあちこち話は飛んでいく。日本国産のYS11が就航間もない頃だから今から38年も前の事になろうか。
貧乏のドン底に喘ぎながら何とか飛行機の運賃を工面して石垣島経由で与那国島行きキップを手に、妻と次女の由美(六歳)に見送られ古い那覇空港から旅立った。2人を大袈裟に空港まで連れて来たのは、国産のYS11機は離着距離が非常に短いからそれを見ておけよ、ただそれだけの理由からであった。次女には帰りにはお土産を買って来るからな由美、と言って目的地の与那国へ行った。八重山や与那国も私にとっては生まれて初めての土地であった。
だが那覇では業界紙記者として八重山の泡盛製造業者たちとは顔見知りの間柄で、空港からメーカーの工場ヘ直行した。その晩は遅くまで飲みながら沖縄本島のメーカーの動きを語り合い、八重山群島の製造業界を取材した。
宿に帰り際にこのメーカーに聞いてみた。「八重山はハブの多い所で恐いが与那国にもハブは出没するんですかね。」メーカー氏は笑いながら、「いや向こうには居ませんよ仲村さん安心なさい。」ときた。私がこの世で一番こわいのが居ないと聞いて喜んだ。
あの頃の与那国空港は決して立派だとは言えなかった。祖納の入福旅館に手荷物を置いて早速久部良ヘバスで行った。港の近くの「南泉」の銘柄工場でおやじ(社長)に会った。細っそりした顔立ちで首に白い包帯を巻いていた。
与那国町の議会議員でもあり、今日は風邪で寝ているところを私に起こされたそうだ。非常に古い玩具みたいな兜釜の蒸留器で掘り込みして、そこから薪で醸していた。早々に引きあげて近くのバス停でバスを待った。が、待てど暮らせどバスは来ない。
通り行くオジーが言った。「バスはエンジンが故障して今日は祖納に行かないんだって」。代わりのバスが祖納から来る筈だが、アクビタラタラして待つでも来ない。代りも何も来ないとなると歩くしかない、とテクテク歩き出した。
現在の与那国島とは地形も道路も全く違い、祖納ヘ向けて右側は丈余のうっそうとした雑木が茂り、左側は海鳴りのする怒涛が岩を喰んでいる。その間をバス1台が通る程のジャリ道が1本あるだけであった。
と、前方約80メートル先に右側の林の中から忽然として黒く大きな物体が現れ道路いっぱいに真横一文字になってピタッと止まったのである。この物体微動だにしない。やっぱり与那国島にもマジムンは居たのか。
5月とはいえ与那国はムンムンするむし暑い真夏である。私は体全部汗でびしょぬれ、額には大粒の冷や汗である。何故あの野郎行くなら行くでさっさと行かないのか、もう相対峠して1時間にもなる。
さては八重山のメーカー氏、僕にウソをついたな、とまで感ぐった。すると遠く祖納方面から車の音がかすかに聞こえてきた。そのうち地響きがしてきた。と件の黒い物体野郎が動き始め左側の方へそろりと消えた。
はぁはぁ青息吐息でようやく私は歩き始めた。そして空港口ビーに飛び込んだ。コカコーラ下さい、と言ったら20セントですときた。アギジャビヨーイ、那覇の2倍じゃないですか。そのままトイレに行って手洗用蛇口からガブガブ「鉄管ビール」で喉をうるおしてまたテクテク祖納に向けて歩き出した。
現在でも時として飲む席にドゥナントゥ(与那国人)が居るとあの黒い物体の話をするのであるが、彼等も解りません、与那国にハブは居ませんと応える。摩詞不思議な事ではある。
あ、久部良にあったのは「長浜酒屋」(長浜一男さん)だった。縁は不思議なもので、この長浜さんの身内の方が浦添の通称パイプライン通りにある泡盛居酒屋「ゆまんぎ」の経営者、大城さんである。
そこの店の名付け親がこれまた瑞穂酒造の営業部長だった首里王家のジーファー作りの名人の末裔、又吉さんである。沖縄芝居役者のかんざしなど、この人の手によるものが多いそうだ。
【2006年2月号に続く】
2006年 1月号掲載