現地ルポ 過疎化に悩む業界 生まれ変わった与那国の“花酒”(昭和47年5月10日)
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[公開・発行日] 1972/05/10
[ 最終更新日 ] 2016/06/26 - 読む
与那国島は石垣空港から飛行機では25分間の所要時間のところである。一時、南方貿易で与那国ブームを巻き起こした当事は5,000人余の人口を擁し華やかだった同島も、今はひっそりとした静かなたたずまいの半農漁町となっている。
年々人口の流出も激しく、島を見捨てる若者が増え、又、本島に学ぶわが子を追って島を出る人もおり、現在では2,986人(町役所調べ)と云う超過疎化現象に悩まされ、おまけに離島が故に運賃が重み物価高に喘いでいるのが、ここ与那国島の実情である。
異常干ばつや台風の少ない年には、約3万トンの収穫があると云うきび作も今年は5,000トンと約6分の1の減収となり、農協から購入した耕運機や他の農機具類の返済も今後順調にいっても、2~3年はかかるだろうと云われ、又、全田面積400町歩余もほとんどが乾田で僅かな水田も細々とやっているのが現状である。
漁業も本場でありながら、1斤1弗(ドル)80仙(セント)~2弗と那覇並の値段で売られており、ほとんどの物価が1昨年の約倍に軒並み値上がりしていると云う。ちなみにコカコーラ1本が25仙(雑貨店売り値)と云う数字でも、この島の物価高を如実に物語っていると云えよう。
きび作、水稲、漁業(かつお、かじき漁が主)と主な産業が衰微している現在、今後新たな産業への脱皮が強く望まれてこよう。天田花、サンニの台、宇良部岳、なんた浜、東崎と名所の多いこの島は、特に海岸線が美しく残っている。
最近タール汚染で問題になっているが、こう云った自然環境を保持しながら観光政策に力を入れていくことも与那国島の明日へのひとつの課題ではなかろうか。
泡盛づくりの歴史は古い
ところで本題の与那国町の花酒だが、同島の酒づくりの歴史は古く、100余年前にさかのぼると云われ、昔は東と西で各部落ごとに何ヶ所と云う工合(=具合)に造っていたと云う。
大正15年には余りの重税に苦しめられ全業者が廃業し、その後は那覇から船で運んできて売っていたと云うが、これがまた破損分まで課税されたため、酒価が高くなり、おまけに与那国島に船が着くまでに4斗積んできた筈(はず)の酒が3斗に減ると云う珍現象も生じたと云う。これは船客が盗み酒をして飲んだのであろう。
業者は二進も三進もいかなくなり、昭和2年に久部良氏(故人で勇吉氏の父)、満名氏を中心に10名位が集まって酒造業を復活させ、去る戦時中まで続け、戦後は1949年民営移管と同時に久部良勇吉氏の他に、入波平信三、長浜静一郎の両氏が免許を貰い現在3ヶ所が酒造りに励んでいる。
一時、人口5,000余人だった当時は、月20石も蒸留していたと云われるが、3,000人足らずの人口に減った現在は、実に副業的な零細企業となっているようだ。その上、3業者がひしめき合っている現状では到底成り立たないであろう。しかも最も泡盛を消費する若者は島を去るのが多く、消費人口は減る一方である。
1月10日からシール制
泡盛業者の悩みはつきない。原料米にしても、石垣で9弗余(100kg)の仕入れ値が、こちらに来ると14弗余と跳ね上がる。したがってこちらでは633ml(4合瓶)が40仙(卸値35仙)で売られている。
久部良勇吉氏のところは、入慶田元登、崎元順行の両氏が加わり3人で久部良氏の工場で各々仕込場をもち、交互に蒸留しているが、歩溜りも“1対0.8”が精一杯だと云う。限られた需要では月1~2回の仕込(100kgが1回仕込)もうなずけよう。
去る1月10日から与那国町の泡盛業界もキャップシール制に生まれ変わった。それ以前までは計り売りで、空瓶を引っさげて“2合くれ”“1合くれ”と云う風に酒屋通いをしていた訳だ。
あの有名な与那国の花酒は、税務署に申請して消毒用アルコールの代用として許可を受け、最初の酒を1~2升位瓶に詰めていたようで、60度以上もあったこの酒が与那国の花酒として有名になっていた。
見事な価格協定の厳守
空便もなかった当時は、海がしけると旅人が1ヶ月間も足止めをくらい、好んでこの花酒が愛飲され、人気を集めるようになったようだ。
しかし、もう与那国の花酒はなくなった。その代わりにスマートな3酒類のレッテルが誕生した。「稲穂」「どなん」「南泉」がそれで、30度、40度、45度の3段階に分けられている。
容量は2酒類で、1升瓶(卸値1弗5仙・30度・小売価格1弗15仙)と3合瓶だけである。この空瓶も2升瓶1本、石垣で5仙のものがこちらに来ると10仙と倍の値段となっている。
ここで、全琉の泡盛業者が学んで貰いたいのは、こちらの価格協定の厳守である。税務署立合で各業者が協約書を交わし協定値を割った業者は、3ヶ月間の操業停止をくわされるようになっている。だから協定値は実によく守られていると云うことだ。
超過当競争を余儀なくされている業界にとっては勢い品質の改善、歩溜りアップ、合理的生産に拍車をかけており、その第一歩が入波平信三氏を代表に設立されている、我那覇尚、金城信浩、大嵩長英の4氏が協業する国泉泡盛合名会社の簡便式製麹機の購入であろう。
つい最近、1人1,000弗宛増資したこの会社は、親戚縁者のあつまりで共同体意識も強く、部落内に157坪の工場敷地に新しく貯蔵施設、製造場を設け、石垣の漢那酒造(漢那憲福代表者)から200K能力の中古の簡便式製麹機を2基購入して合理化の第一歩を踏み出している。
入波平信三氏は、「これまでは副業的にやっているだけですが、これからは本格的に取り組んでいきたい。与那国は気候風土にも恵まれているし、酒の味もいいので自信を持ってやっていきたい。以前は連合会にも加入していたが、何ひとつ恩典はなく、離島は取られるばかりであったので脱退した。今後も加入は考えられない。」と今後の抱負等を語っているが、現在同工場はステン容器(3石入)の4本と、甕(1石入)8本の合計20石の貯蔵能力だが、今後徐々に増やしていくであろう。
「泡盛1升の代金が1人前の男が貰う1日の給料に相当した時代から、やたら賃金だけが上昇し、逆に酒価は以前のまま、おまけに農民の作るものは安くなるばかりで、豚肉は1弗以上も値上がりし、更に本場と云われながら豚肉よりも高くなっている魚、かと云って魚を食べない訳にもいかないし・・・。」と述懐する久部良勇吉氏の言を待つまでもなく、与那国は沖縄本島以上の物価高に青息吐息の状態にあるようだ。
今後の与那国の泡盛業界に課された急務は幾多あげられようが、先ず愛飲者にほんとうに琉球泡盛の味の良さを吟味し、提供することから始めるべきであろう。すなわち貯蔵施設の充実が指摘されようし、歩溜りアップへの努力も強く望まれよう。
ともあれ、与那国の“花酒”は消えた。
しかし新しい3銘柄のレッテルが登場したし、気性が激しく人情こまやかな“どなんとう(与那国の人の意)”はこよなく酒を愛し飲む人だから、今後大いにおらが町の琉球泡盛を消費していくことだろう。所用で与那国を訪れる人に是非手土産におすすめしたい酒である。