今でこそ泡盛の原料はタイ米で沖縄産の米も若干使用しているが、38年前の小紙醸界飲料新聞の創刊の頃は唐芋やザラメが主原料であった。いや黒砂糖があった。
わけでもザラメは長らく使用されていた。それの卸元は那覇市松山の卸問屋街の金城商事(金城カネ社長:糸満出身)と大東商事(那覇市安里)であった。その後は黄色いキューバ産のザラメが輸入され、泡盛業者はそれで造っていた。
今人気の高い奄美大島の黒糖焼酎も、いわば沖縄が先駆者だったといえる。現在でも奄美大島の黒糖焼酎の原料の黒糖の大部分は沖縄から買い付けているのではなかろうか。我が沖縄の基幹作物に大きく貢献しているわけだ。このザラメで醸された泡盛はすごく甘みがあっておいしかった。
あの時代は、「2次仕込み」も行われていた。時代が時代だけにモ口ミに力が弱かったのであろう。筆者はちょうどその工場ヘ取材に立ち寄った時、目のあたりにしたことをおぼえている。その頃の蒸留器は殆ど大きな鍋で、今では想像もつかない程小型であった。それも時代が下ってくるのに従って姿を消していった。
その頃、或る銀行の首里支店のロビーで面白い話を聞いた。今は廃業しているが、つい最近までサキタリヤー(泡盛酒造業者)だったというオジー(じいちゃん)の話である。「銅鍋で造る泡盛は甘くてコクがある。しかし銅鍋に残る青い汁には毒素があり敬遠した」と言うのであった。
しかし筆者はこの新聞を発行してまだ歴史は浅い若造であってみれば、そうですかをくり返しうなずくだけであった。いろんな人々から多くのミミガクムン(耳学問)を得たお陰で、今日泡盛についての下積みとなっている。良しにつけ悪しきにつけ筆者にいろんな事々を教え、聞かせてくれた多くのサキタリヤーおやじ達もこの世を去ってしまった。
こういう話も聞かせてくれた。敗戦直後、人々が物に飢え苦しんでいる時代、粗雑な泡盛でも飛ぶように売れた。カマス一杯に詰めた売り上げ金を4人の大の男が担いで山の中に入って行った。工場内で山分けしている所にもし強盗でも入って来たら大変だということだった。これは笑い話ではない。本当にあった話である。
沖縄がヤマトに復帰した時国際海洋博覧会が沖縄で開催された。その時開会式に皇太子殿下(現、125代天皇)が妃殿下と共に来沖した。時の首相の三木さんがお伴であった。我が泡盛製造業者達は、相当以前から世界一うまい泡盛のクースを厳選した。皇太子ご夫婦に献上する為であった。
いよいよ当日である。皇太子殿下はチョコでこの世界一うまいクースを味見していた。妃殿下はシークワーサー割りのいわゆるカクテルをお飲みになっていたが、皇太子殿下は妃殿下に「泡盛はこうして飲むんだよ」と説明していたという話である。
この貴重な実話を筆者に聞かせてくれた人は、前出のカマスに詰めた札束共々那覇市小禄の宮里酒造所の宮里武秀社長(故人)であった。現在は宮里徹さん(二男)が後を継いでいる。
この人、泡盛造りでは世界一の達人であった。が、商売は上手ではなかった。或る有名メーカーのラベル名などは、この人が命名者である。話しぶりも卜ツトツとあまりしゃべるのも上手いほうではなかったが知恵者であった。
筆者とはよくウマが合って仲良く飲み明かした間柄だったが、時としてケンカ(口論)もした。勿論泡盛づくりについてのシゴ卜上のそれであったが、2人共飲んで酔っ払うとガージュー(頑固者)だから負けては居なかった。
しかし、筆者はこの人から学ぶところも多かった。この人が造る泡盛の妙味は多くの泡盛製造業者に示唆を与えていると思う。しかし、敗戦このかた何十年もサキタリヤーをしているこの方でも解らないことがあった。ステンレス容器に長い間貯蔵して熟成させたクースの1本が空になったので中をキレイに洗い流そうと考えて中をのぞいて見た。新たに熟成させる酒を詰める為である。
すると相当な厚みで黄色いド口ド口した液体が積もっていたのでホースで勢いよく流して捨てたのである。後日、筆者はこの事を聞かされて唖然としたのである。
【2007年3月号に続く】
2007年2月号掲載