-備忘録-②-(二)(平成25年8月17日)

  • [公開・発行日] 2013/08/17
    [ 最終更新日 ] 2015/09/29
   

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熟成クースを味見する故佐久本政良さん

東恩納寛惇に怒られた
-佐久本政良さん

「君の原稿を何回も繰返し読んだよ仲村君、よく書いてくれたな」取材に訪れた那覇市首里鳥堀町の咲元酒造の佐久本政良さんは私にこう言って感無量の態だった。私の友人の津野創一君が発行していた月刊誌「青い海」の創刊10周年記念号の扉の一面に書いていた私の拙文“琉球泡盛に熱い愛の口づけを”を読んでのお言葉であった。あのころの琉球泡盛は売れず、輸入ウイスキーの全盛期時代で消費者は皆それを飲んで居た。泡盛はドン底時代だから私の新聞への広告出稿も全然なし。メーカー以上に私は赤貧洗うが如しの生活であった。政良おやじのそのひと声が私を少し精神的に“ゆとり”を感じさせてくれた。政良おやじを思う時、忘れられないのが同工場のモロミ仕込み場の神棚に祭ってあった素焼きの佛様であった。タテが約21センチほどのこの佛さま、実は民族学の第一人者東恩納寛惇さんが与えた物であった。政良おやじはモロミ場のこの神棚の佛さまの両側のロウソクに火を灯し手を合わせ、こうべを垂れ、「今日もいいサキを生まらせ給へ」と唱えて居た。昔のサキチュクヤー達は「酒を造る」とは言わずに「生まらせる」と言っていた。

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東恩納寛惇さんから贈られた泡盛の神様がモロミ室の神棚にはあった 政良おやじが毎朝拝んでいた泡盛の神様

毎朝モロミ室の酒神様拝む

けだしなつかしい表現ではある、とつくづくおもうのであるが・・・。東恩納先生はこの素焼きの佛様は「これはタイからのお土産で酒の神様だ」と言って政良ウフヤッチー(大兄)に上げたのであるが、もうひとつのお土産がモチ状の麹であった。政良おやじはこれを雨垂れにほったらかしてムダにしたそうだ。シャム国(タイ)から帰国後、東恩納先生が佐久本の酒屋(昔はそう呼んでいた)へ訪ねてきた時、この麹はダメにしてしまった、と政良さんは恐縮しながら話すと、「先生にしたたかアック(怒る)サティヨー仲村君」と当時を懐かしんでいた。

ニッカウイスキーの社長でもあった

政良おやじはニッカウイスキーの社長も務めていたが、これはほんのしばらくの間だったように私は思う。咲元酒造の近くの2階にレストランがあったが、私はよくそこへ連れて行かれ、泡盛の今後について話し合った。物静かな方だった。1987年9月29日没 享年97歳。
現在、この政良おやじの息子佐久本政雄氏が社長である。実に飄然としていて泡盛を造っている。臆せず、逆らわずひたすら己の道を歩む造り人だ。酒造り人は裂く斯くあるべきだ、と私は思う。インテリで詩人でもある。「日は茜色に染まりて 首里古城に沈み 秋風鐘楼に満ちて 古来歌舞の地に響く 且くは泡盛の杯をフクムめば 万里を愁ひて夜の長きに苦しむ 生年は百に満たず 楽しみを為すは当に時に及ぶべし」政雄さん自作の漢詩である。琉球大学、アメリカ留学、長年アメリカ銀行に勤め、父の跡を継ぐ。同社のラベルや化粧箱のデザイン等は総べて政雄社長の手になるものだ。
同社の見学、クースの試飲なども歓迎している。「人は酒を飲み夢を語る 酒は夢を飲み人と語る」

咲元酒造合資会社の入口に掲げられている政雄社長自筆の詩だ。

スイ人の心意気を示す時だ

咲元酒造では現在政雄氏の次男敬さん(55歳)が社長代行を担っている。首里にはかつて120軒もの酒屋(造り酒屋)が在ったが、現在は4軒のみとなっている。泡盛発祥の地スイ(首里)人に心意気を示すのはこれからだ。
平成25年8月17日掲載記事

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