創刊45周年を迎えて・・・(平成25年8月17日)

  • [公開・発行日] 2013/08/17
    [ 最終更新日 ] 2015/09/22
   

小紙醸界飲料新聞が創刊されたのは1969年5月17日であるが最初のタイトルは醸界ニュースだった。

あれから45年にもなろうとしている。感慨無量である。
そこでボチ、ボチその集大成なるものを連載していきたい。来年のその日まで各界の関係者及び専門家の皆様に無理なお願いをして忌憚ない悪口・提言・提案などをまとめて行きます。皆様よろしくお願いいたします。

インタビューその①

醸界飲料新聞 編集発行人 仲村 征幸

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上間信久さん

大の泡盛ファンで「醸界飲料新聞」にも論考・提言を寄稿する上間信久氏(琉球朝日放送社長)に話を聞いた。(聞き手・池間記者)

蟷螂の斧の親父で奥さんの理解も大きい

貧乏ひとすじの仲村のおやじ

「醸界飲料新聞」が創刊45年を迎えますが

「今時ですね。ああいう新聞を出して、ヒンスークァラクァラ(貧乏ひとすじ)して、なぜ続けられるのか。心意気の方がすごい。やはり、フラーでないとできない。奥さんのバックアップ。家族の協力がないとできなかったと思う。泡盛同好会にしろ、仲村さんと久米島新聞の平田三の力がないとできなかった。大きな原動力だった。ローカル紙、業界紙を主宰しておられた2人が新聞を出しながら“泡盛は沖縄の文化だ”を言い続けた功績は新聞なくしてはできなかった」

社長の経歴を簡単に

「1947年9月、今帰仁村字今泊生まれ。2010年12月から社長です」

仲村さんをどう呼んでいますか?初印象は?

「仲村の親父ですね。初印象は“野に放たれた蟷螂の斧(カマキリ)”復帰後ですね、うりずんで。薫陶を受けたのは、1984年ですかね。1月頃、うりずんの2階で“焼酎のルーツを求める旅”という日本テレビ系列の取材があった。セットしてくれと頼まれ、うちの女性キャスター2人を連れて、うりずんの土屋さん、仲村さんの2人を対談させました。当時私は泡盛を文化と思ってないし、ただの酒です。しかし、2人が論じる泡盛文化を聞いて、ふと思いました。何でヤマトから来たテレビが泡盛取材して、沖縄のテレビは取材しないのか、と自己反省しました」

「仲村さん、あのころは颯爽としていた。“泡盛はヒンスームンの酒ではない”とか、松山王子尚順さんの話、山里永吉さんの話などいろいろ聞かされました。今でも覚えている話がひとつありまして、桜坂で、平田さんと飲んでいたらカウンター越しにたまたま泡盛メーカーの社長さんがいる。“征幸、イッターヌウヌドーガ(君たちは何を飲んでいるか)?”と聞かれたので、これだと泡盛を持ち上げたら、“シマーナー(島酒か)ヒンスウムン酒(貧乏人の酒だ)ワッタークリヤサ(われわれはこれを飲んでいるぞ)”とスカッチを見せた。マーカラ怒るか(笑い)」

百年古酒の仕次ぎ式には、毎年参加していますね?

「その前に、1984年か85年の話です。うりずんの泡盛仲間に与那嶺先生がいて、先生の車庫に土屋さん、仲村さん、その他同好会のメンバーらが泡盛を寝かしていた。開けることに成って、取材も南西航空の機内誌『コーラルウエー』の編集長、私たちも取材に来た。車庫の前は道路。道隔てたところにムシロを敷いて、サンシンを用意し、御前風を弾いた。“クースニナラチキミソーリ(良い古酒にして下さい)”とね。みんな期待でわくわくしている。ガラガラガラとガレージが開いた。しかし、壺のフタが腐っていたり、期待したほどでないものも。しかし、中には素晴らしく古酒になったのもあった。そういうことを楽しんでいた。1997年に100年古酒がスタートしたが、それは泡盛業界が2つに割れたからですよ」

2つに割れたと言うのは?

「つまり古酒にこだわる潮流と美味しく飲ませばよいという潮流です。減圧蒸留、タル酒とか飲みやすく、売れれば良い。消費者に合わせる兆候があった。90年代の後半には泡盛が壊れかけつつある、という危機感があったと思う。自分たち同士で“では、それなら自分たちで古酒つくってみよう”とやったと思う。私はこのころ東京勤務。具体的には知らないが、話しぶりからするとそういうことです。

今の話は始めて聞きましたしかし減圧は飲みやすいですね。

「飲むための酒です。少なくとも泡盛本来の精神とは違う。年月を重ねて馥郁たる文化の香りが出る。古酒には香りといいます。人にも風味があるように、味わいがあるように、泡盛にもこの香りと味があって、そういう馥郁とするものをつくる精神がある。それから泡盛を飲むときは微酔でないといかん」

それ、誰が言ったのですか?

「仲村の親父。今の親父からは信じられない話です(笑い)“酒は微酔を心得なさい”と。これを訳するとほろ酔い、サーフーフーだな。あの頃は楽しかった。夢があって」

『醸界飲料新聞』が果たした役割について

「やはり、泡盛は文化であると堂々と主張したペーパーです。仲村さんの強い意志と信念があり、それを支える友人らがいて、続けられた。泡盛メーカーだって、こんなものに金は出せないよと言われたこともあった。このようなときに、首里物産の宇根底さんが広告を出し、うりずんの土屋さんは例の“ヤッチーサイ”の広告、後は久米仙の島袋周仁さんと菊之露の下地潔社長、それに後年には西村邦彦さんが瑞穂酒造に入ってからが支えた。そうなってくると、他のところも新聞のすごさを知りはじめる。この新聞を取らないと国税ににらまれる(笑い)」

「業界を教育するペーパーであり、消費者に泡盛を再認識させる新聞。だから結果として泡盛は文化というところにつながって行く。私は薫陶を受けたひとりです。強烈な印象が残る記事が少なくない。日露戦争の戦費調達で、泡盛の出港税が倍近くになる。他府県では県外出荷の酒税が高くなる。業者にとって死活問題だから東京へ陳情に行く。沖縄選出の代議士先生方は力にならなかった。同行した新聞記者が“東京で活躍する琉球人よ出でよ”と書いた。記事は玉石混交ですが(笑い)、すごい記事も多い。何度でも言うが泡盛への誇り、自信みたいなものを持ち続けよう、といった新聞です。」

今後への期待。または苦言・提言を

「やはり、県民にとって泡盛とは何者か?ということを最後まで問い詰めていってほしい。最近は耳も少し遠くなっているが、頑固親父は変らない。“野に放たれた蟷螂の斧”“ゾウに立ち向かうカマキリ”だね。無駄な抵抗というより、意味合いはもっと上質なもの。小さな虫でも大きなものに立ち向かう意思をもち続けることの大切さと思う」

稼業的業界を意識の改革を

「これからもずっと誇り高き主張を続けてほしい。これは仲村の親父しかできないことだ。泡盛業界のみならず、消費者に対しても。メーカーの現状はヤーグヮーチクエーしている。稼業的なメーカー。メーカーだけが繁栄すればいい、という意識に対して、これを改革するためにどうすればいいか。オール沖縄にまとめるための方策を模索して欲しい」

平成25年8月17日掲載記事

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