前号と前々号に新崎盛敏さんの「西武門節考」を小紙掲載から引用して紹介した。今号では氏の友人の金城唯温さんが「波之上界隈(かいわい)」を書いて下さっているので、ま、その続編みたいなカタチで小紙掲載号から引用してみたい。
金城唯温さんといえば東京中野区で「沖縄郷土の家」の家主さんであった。ご自分の住宅を開放して上京して来るウチナーの若者達を受け入れて面倒を見た人である。詩人山之口漠もだいぶお世話になったといわれている方だ。ナーファンチュであった。
沖縄にいらっしゃる時にはよく一緒に泡盛を汲み交わした仲である。
「友人新崎盛敏氏の『西武門節考』を読んだ。本人がいうように、首里人でありながらよくあれだけ書けたものだ。近頃読んだもののなかでは味のある興味深い随筆だった。西武門といえば、私にもにがい思い出がある。そのことを書けばよいのだが、差しさわりがあるので、ここでは割愛したい。西武門は新崎氏がいうように、波之上を含め、後道、中道、端道の辻遊郭の中心地だった。西武門節にあるように、特に首里方面の遊び人にとっては、甘い感傷の地である」。
「西武門ぬうぇだや お伴さびら』
「私は二十歳の時に東京に出て来たが、すこしませていたらしく17、8の頃はよく辻遊びをした。方角が違うので、帰り道は西武門は通らなかった。金のある時は、西武門の三角そば屋で泡盛を飲んだり、そばを食べたり、波之上軒というビリヤードで玉を撞いたりした。それから右門の床屋にはいりこんで、床屋の親父とよく碁を打った。矢張り相当の遊蕩児だったらしい。私たちの青年時代といえば、短歌の流行った時代だった。石川啄木、前田タ暮、土岐哀果、与謝野晶子、若山牧水、別にアララギの錚錚たる面々が名を連ねていた。私たちは仲間を集めてガリ版刷りの短歌雑誌を出していたが、メンバーの中には無類の酒徒がニ、三居た。石川正秋、当間黙牛、新垣清輝等、この連中と私は毎日ほどに波之上のセーコージで泡盛を飲んだ。スヌイ、ソーミンチャンプルー、鮪刺身等酒の肴があったが、私はきまってタクサシミと泡盛だった。10銭均一だったように覚えている。こんなことがまた文学青年らしく、一種の誇りのように思ったりしたのだ。私の叔父は泳ぎの名人だったので私は子供の頃から夏冬をとわず、朝早くから波之上で泳いだ。当間黙牛も泳ぎが達者だったので、私たちは酒飲んでからも二人でよく泳いだ。今考えてみればあまり賢明ではなかった。私はまた親父が酒飲みだったせいもあって、子供の頃から泡盛をたしなんだ。
毎晩ビール壜の1パイづつ泡盛を買いにやらされたので、途中で泡盛を少し失敬した。その癖がついて、いまだに酒といえば泡盛、泡盛以外のものは飲まない。東京北区飛鳥山のほとりに、大蔵省の醸造試験所がある。同所は日本全国の酒の大元締めである。もうすこし詳しくいっなら酒作りの指導から酒の等級の決定等、およそ日本の酒に関する限り、オールマイティの役柄をもっているおそろしく権威のある役所である。私は縁あって、醸造試験所の三博士と知り合いとなり、戦時中は試験所へ行けば、飲むだけはいくらでも飲めた。うらやましいくらいの地位にいた。三博士というのは、大蔵省専売局の塩、酒、それに味噌の研究がなされていた。
さてそのーつの酒の部分、その博士が沖縄泡盛の大家であった。
わたしはこの博士から沖縄の泡盛についての総べての利臭、特性をつぶさに教えられた」。
【2007年8月号掲載に続く】
2007年7月号掲載