佐久本政良氏に勲五等~その道50年~(昭和46年4月29日)
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[公開・発行日] 1971/04/29
[ 最終更新日 ] 2016/02/25 - 読む
本土政府は春の叙勲を4月29日付で発表したが、3,716人中、沖縄在住者28人。その中に泡盛造り一筋に生きてきた佐久本政良氏が含まれている。勿論、現役泡盛造りとしては初めての受賞であり、これまで受賞がなかったことが不思議な位であると云えよう。受賞の報に朝から祝電や祝い客がひっきりなしに来る中で受賞の喜びを次のように語った。
「泡盛造りを初めてから50年になります。大正7年(1918年)に兵隊にとられ除隊後又すぐ泡盛造りに戻った訳です。父が病弱だったものですからね。趣味は何かとよく人に聞かれるんですが、私は酒造り以外にないと答えています。
人間は隠居すると健康によくないので、これからの余生を酒造りに邁進していきたいと思います。たいした功績もないのに身に余る光栄です。宮中での受賞式には晴れがましくも妻と一緒に上京いたします。」
政良氏の横顔
首里尋常高等小学校卒後一中を大正5年(1916年)に卒業、大正7年(1918年)入隊、除隊後父と泡盛造りに専念。戦後首里酒造廠(民政府財政部直営工場)で酒造り、その後工業部直営となり民営に移っているが、その間ずっと酒造り一筋の道を歩んできている。
民営に移ってから原料米問題で苦しんでいる時に、当時の民政部にフインクと云う女史がいて、現会長の崎山起松氏と一緒に陳情に行ったら、GHQに掛け合って5,000トンの原料米を獲得したと云うエピソードもある。
当時すでに連合会長の任にあり、当初第一物商を通じ原料米は仕入れていたが、後に泡盛産業KKを設立し、原料米を獲得、自信を得たので今度は輸出に力を入れるようになった。毎年本土に行き、上野あたりで街頭宣伝をやったりしたと云うが、当時の生産石数は25,000石位で、本土では焼酎の全盛時代だっただけに苦労した由。
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