大正12年奄美で泡盛造る~大島では泡盛をセエと呼ぶ~

   

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醸界飲料新聞18~20号からの抜粋記事

ここに明治32年~明治41年までの10年間の琉球泡盛の島内需要高記録がある。これはペンネームいしがきたすく氏が明治42年2月14日付琉球新報から引用したもので、昭和47年9月5日付小紙第19・20合併号に寄せた玉稿である。

それによると、明治32年が6、074石7斗7升7合で10年後41年には10、205石6斗2升5号となっている。明治42年の本土への移出石数では、東京が27、600石などとなっていて、当時は大都市での消費数量はかなり大きな占有率となっている。また、奄美大島へも相当な数量が移出されているが、数字があやふやなのでここでは明記できないのが残念である。

ところで、この奄美大島で泡盛が造られ始めたのは意外と浅い。今から30年前の小紙の創刊1周年記念号に座談会記事があるが、その中で佐久本政良さん(咲元酒造の先代社長・故人)が次のように語っている。

「当時ですね。不況時代の大正12年にね、大島で西平君が向こうへ行って泡盛を蒸留し、しばらくしたら宮古で野村さんが、それから他でもやると、こういう風にして宮古が4千石位いじゃなかったんですかな、大島もそれ位い。それ位いのお得意先が無くなったわけでしょ。それで島内はほんとうに無益な競争ばかりしておったんですよ・・・」

奄美大島に泡盛が無かった時代の話しを1席。awamori_yomoyama_story_2000_08_amami_see

沖縄と奄美は古くから舟底が平たい帆舟で貿易が盛んに行われていて、牛馬などの家畜も奄美に買いに行った。大島に酒がないことから往く時は泡盛を運んで行った。びんもない時代で浜辺で壷から量り売りをしていた。或る時、壷を持って泡盛を買いに来た大島の人が泡盛を指さして、沖縄ではこれを何と呼ぶのですかとたずねた。その時、量り売りしている1升マスにバッタが止まったので、沖縄の人はバッタのことを聞かれたと勘違いして「これはセエだ」と答えた。大島の人はこれをてっきり泡盛の名前だとこれまた勘違いした。それ以来、沖縄から舟が入ると大島の人達は「セエを売ってくれ」と言い、沖縄の人は「セエは奄美では泡盛の呼び名だな」と思い込み、現在でも奄美大島では酒のことを「セエ」と呼んでいる。

前出の佐久本政良さんは大正時代に宮古に4石位い出荷していたと語っており、奄美大島へもそれ位い出していたと話している。両島合わせると8千石の数量となる。これは当時としては大きな数字である。

大島や宮古でも泡盛が醸されるようになり、沖縄本島の泡盛製造業者は大きな市場を失ったわけだ。それにしても酒の名前というのは面白い。偶然であり単純ではある。わが泡盛の名称の由来もあまり深く詮索する必要もなさそうな気もするのだが…。

2000年8月号掲載

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