創刊45周年を迎えて~泡盛よもやま話を14年続けた 屋良悦子~(平成25年12月)

  • [公開・発行日] 2013/12/21
    [ 最終更新日 ] 2015/09/07
   

泡盛よもやま話を14年続けた フリーアナウンサー 屋良 悦子

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屋良 悦子フリーアナ

ラジオ沖縄の番組「泡盛よもやま話」で仲村征幸さんの相手方を務めた屋良悦子アナウンサーに今だから話せる裏話など番組から見た仲村さんの真実を語ってもらいました。(聞き手・池間記者)

<屋良>
そもそも「泡盛よもやま話」をやろうというのは、今から19年前なのですが、最初「久米島の久米仙」の島袋周仁さんに「お早うインタビュー」をしていたときでした。島袋周仁さんがラジオの面白さに目覚めたころ、福岡泡盛会の山城高常さんが「久米島の久米仙」の周仁さんとお友達、懇意にしていて、九州には面白い男のジョッキーみたいなのがあるんだけど、泡盛の語りの番組ができないか、と持ってきた。周仁さんとこんな番組ができたら面白いね、と生まれたのが「泡盛よもやま話」。仲村征幸ヤッチーをおいて他に泡盛を語れる人はいないだろう、とパーソナリティーとしてまず仲村征幸ヤッチーの名前があがった。

<池間>
最初から?

<屋良>
そう。仲村ヤッチーが語るんだけれども、語らせる人が必要でしょう、と私が相手することになったんです。「お早うインタビュー」がスタートして1ヶ月後には「泡盛よもやま話」が週1回15分の番組としてスタートしました。

<池間>
「お早うインタビュー」は今もやっていますよね。

<屋良>
はい。「お早うインタビュー」と「泡盛よもやま話」は1ヶ月しか違わない。季節はずれの5月スタートです。番組改編は普通4月ですが、ぜひやろう、という「久米島の久米仙」の島袋周仁さんの思い、気持ちがなければ生まれなかった番組。仲村ヤッチーは引き受けたけれど「久米島の久米仙」だけを宣伝すればいい、と思わない人です。オール泡盛という形だったら受けましょう、と受けている。わたしたち2人は番組の中で「久米島の久米仙」を賞めるだけでなくて、けなしはしませんが、「オール泡盛でいこう」と。だから違う社長さんの声を何度も出したことがあるが、そのことに一度もクレームはなかったクレームを受けたことがないので続けることができた。「久米島新聞」の平田清さんが亡くなった後でしたので、「平田くんがいればなー」「平田くんはこうだった」と思い出話が番組でたびたび登場した。

<池間>
平田さんは1991年に亡くなっています。

<屋良>
そうですか3年経っても・・・5年くらい続いたでしょうか。平田さんの話、が出なくなったのは後半からです。

<池間>
とても親密だったようです仲村ヤッチーとは。


泡盛飲み乍ら放送していた? とんでもない一滴も飲みません

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放送中の仲村と屋良悦子アナ

<屋良>
ほろ酔いジョッキーではないんですが、「仲村ヤッチーはいつもお酒を飲みながら放送しているのでしょう」と言われました。

<池間>
えっ、飲んでいないのですか?

<屋良>
一滴も飲んでいない。スタジオですよ。飲んでいない。本当ですよ。

<池間>
番組の出だしのナレーション教えてください。

<屋良>
はい。「いかなしわぐとぅんぬみば わしりゆりんくみかわすさきどうぬちぬさらみ」(心配事は飲んで忘れよう酌み交わす酒こそ命の薬だ)

<池間>
すばらしいですね。これは最初から入ったんですか?

<屋良>
はい。テーマ曲は普久原恒勇さんの作曲、「つんだら慕情」です。

<池間>
出だしのナレーションは仲村ヤッチーが考えたのですか?

<屋良>
テーマを作ったのはうちのディレクターだった山本勇さん(ヤマちゃん)です。ナレーションの琉歌は詠み人知らず。お酒の歌を探したけれどなかなかなかった。番組の冒頭、曲が流れ、ナレーションが入って、それから本番。それから、長い期間平良幸市元県知事の琉歌を使ったことがありましたね。

昔のことは逐一覚えている ヤッチーの力はすごい

<池間>
番組のハプニングなど、聞かせてください。

<屋良>
結構、出てきたらこちらがはっとする素敵なエピソードをいっぱい持っている。きのう起こったことのように話してくれる。この人は泡盛を愛しているんだな、第一人者だな、と感じるが電話しないと来ないわけ。

<池間>
電話?

<屋良>
録音ですよ。録音日というのは決まってなかった。電話すると、「もう、ないの?」。ストックがなくなると1周間前には電話して、呼び出す。仲村ヤッチーの場合、1ヶ月まとめて取れませんでしたね。「きょうはこんだけ。」とか(笑い)。取材で、山原、宮古、八重山へもいっていました。結構、忙しかったようです。

<池間>
新聞の取材や広告取りですね。1回分何分ですか?

<屋良>
15分。コマーシャル抜けば12分くらい。取材も15分。カットほとんどないが、長い「アー」「ウー」はカットする。私、気絶しそうでした。「アー」「ウー」の間の長さ。その後には、すごい話、が出てくる。しかし、詰めましたね。この間の長さ。私も間の悦子と言われましたが、仲村ヤッチーの間の長さには驚かされました。時代なんでしょうか。このテンポでやったので、ここまで来れたのかな、と思う。あまりアップテンポで行くよりは。ゆっくり熟成しながら、だから人間クース(古酒)!しゃべりもクースです。昔のことは全部逐一覚えていて、何一つ同じ話がない。「あ、この話は聞いた」というのがなかった。心意気はいつも青年でした。泡盛のことならだれにも負けない。その情熱は今でもあります。それ以外に電話で、だんだん耳が遠くなり始めた。取材のお願いで「そろそろですよ、仲村ヤッチー」と電話すると、「ハァ、ハァ」と仲村さん。よく聞こえないので、私は電話で「ウフアビー」「ヤナアビー」するわけですよ。(大声で)「あのですねー」。周りは、ケンカしているのかと、びっくり。(大声で)「お願いしますよ」(笑い)。こんなことがしばらく続いた。  本人は「フー」「ハー」と笑っている。そのうち事故も結構ありました。

<池間>
放送事故?

<屋良>
本当の事故。本人のケガ。手をケガしているので「どうしたの?」と聞いたら、宮古から船で帰ろうとしたら菊之露酒造の下地潔社長に「もっと飲んで行きなさいよ」と言われ、港近くの居酒屋で飲みだした。そうこうしているうちに、汽笛がなったんでしょうね、「うりひゃー」と慌てて、走った。お土産の四合瓶を手に。港のヤードのランバーにつまづき転んだが、酒びんは割るまいとしたため、手首を複雑骨折してしまった。長い間「アガー、アガー」していました。四合瓶は割らなかったと本人は満足そうにしていましたけれど。

<池間>
現在は番組を降りていますが、経緯を。

<屋良>
私は仲村ヤッチーの話の中身には不満はなかった。まだいくらでも話せると思ったが、本人が体調を崩した。

<池間>
今後仲村ヤッチーに期待するものとは?

<屋良>
ある時期、新聞もバトンタッチをしようとしたこともあるが、これまで通り、この仕事を続けて行かれると思う。征幸ヤッチーだからスポンサーがついている。  新聞の中身は、旧聞なんだけれど(笑い)、征幸ヤッチーの思いが綴られている。今煙たがっている人もいつか読み返すと「ハッ」とするのではないか。そんな思いがします。征幸ヤッチーに言わせると、「造り手だけの泡盛ではない。飲む方、われわれの声も聞きなさい」、というプライドを持っている。 番組の中からクースの日(9月4日)が生まれ、100年クースも「うりずん」と同好会の力で生まれた。仲村征幸ヤッチーがいつもかかわっている。この20年を見ただけでも、仲村ヤッチーの力はすごい。番組に収録された仲村ヤッチーの声はすべて残しています。

平成25年12月21日掲載記事

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