命がけの取材に泡盛をグッイ~“酒飲み大会”で酔いつぶれ~

   

awamori_yomoyama_90_awamori-symposium-in-postwar-okinawa_vol1今から14年前の19934年9月3日付第24号の本紙醸界飲料新聞に面白い記事が載っている。「創刊25周年記念“泡盛は宣伝が足りない”」という横見出しで4人の御方々の座談会がある。その模様を今号から紹介してみたい。

出席者は次の4氏。稲嶺盛園(元那覇市教育長・戦前戦後の新聞記者)、名嘉正八郎(那覇市教育庁歴代宝案編集事業担任)、金城幸男(デイゴ住宅株式会社 技術顧問)、福村安弘(那覇市民会館館長)。

稲嶺盛園

僕の泡盛との出会いというと、実は今の時代からいうと飲めなかったですよ。昭和18年、23歳だったからなぁ。軍部の命令で沖縄の3新聞が統合させらて出来た「沖縄新報」に入った。

その時の社長に伊江男爵をもってきた。その歓迎会がチージ(辻)の料亭「三杉」であって、僕は末席に座らされ、そこで泡盛と出会った。アンサー二(それで)辻にはジュリ(女郎)になる前の15才ぐらいの可愛い女の子が注いでくれるものだからグイグイ飲んだ。

そしたらだんだん天井も人もみんな回り、ぶっ倒れてしまった。みんなに担がれて人力車で家に送られたというが、翌日全然解らない。それからというもの、酒は絶対やるまい、と決心した。

しかし以後戦争がいよいよ激しくなり、新聞も今の状態では続けられなくなり、首里の鉄血勤皇隊の壕の半分を間借りして新聞づくりを始めたわけです。取材に繁多川方面まで行くわけですが、命がけですからね。決心した筈の泡盛を勇気づけにグッイと飲み干して走った。

 

本紙

どこにその泡盛があったんですか。

 

稲嶺盛園

首里はもうみんな居ないんですよね。酒屋(造り酒屋)に甕がそのまま残っていたんですよ、こんな大きな甕で(1石以上の壷か)。それを千早隊が担いで持って来た。

 

本紙

おもしろいお話ですね。で、その壕に何ヵ月ぐらい居たんですか。

 

稲嶺盛園

60日間新聞をつくり続けました。いよいよ米軍が首里城に迫って来たものだから解散して逃げましたが、その時からはすっかり飲めるようになっていた。

 

名嘉正八郎

泡盛の効用で取材ができたと。たっぷり飲んで(笑い)。

 

稲嶺盛園

先輩が常々言っていたことは、飲んだら絶対に吐くなよと。そして話はよーく聞くようにしなさい、自分からしゃべるなと。

 

金城幸男

私は昭和19年の十・十空襲(沖縄大空襲)で久茂地小学校から大宜味村小学校へ避難し敗戦を迎えましたが、高校3年の頃、各家庭で酒を造っていたんですよ。

 

名嘉正八郎

今でいうと密造酒ですよね(みんなで頷く)。

 

金城幸男

当時は芋、米、造ってもカネにならんですよ。酒を造って物々交換した。ドラム缶何本使ったかで結婚式の評価も下された。水缶があったでしょう。あれもドラム缶に入れると何本と。

酒飲み大会で酔いつぶれる

その当時は、土曜日になると5合入りの水筒のいっぱいづつ持ち寄って学校の式台を運動場の真ん中に持って行き、そこで飲んだ。時の校長先生が「ヤンバルは酒が多いから、もし飲めと言われたら手に受けて口につけて返しなさい」と訓話を垂れていた。口につけている間に酔った(一同大笑い)。

大宜味村の与波部落には正月2日に“酒飲み大会”というのがあって、学生だろうがみんな参加できた。参加料が泡盛1升だった。

コーラー瓶を切ってコップにして、4酌位い入ったかな。立ち会い人が居て、“飲み始め”と号令がかかると一斉に飲んだ。僕なんか30杯で10番にも入らなかった。そこで酔いつぶれて意識を失った。

私は台湾生まれ育ちで敗戦の翌年に帰って来た。本籍に帰った訳ですね。あの頃高等科1年生でしたが、お正月には密造酒を飲んだのではなく、なめたんでしょうね。それが泡盛との出会いですが。

高校は名護ですが、本格的に酔いつぶれるまで飲んだのが高校3年の頃でしてね。もう卒業するということと大学入試中だったんですね。

 

2006年9月号に続く

2006年8月号掲載

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