なんた浜の千鳥も鳴かず~泡盛“南泉”も今はない

   

【2006年1月号の続き】
宿を「入福旅館」に定め夕飯をすませ、近くのスーパーから3合瓶詰めを買って小高い丘にawamori_yomoyama_84_yonaguni_ginamasyuzou_nansen_story-2登って独り夏の夜空に輝く星空を見ながらラッパ飲みを楽しんだ。水を忘れての泡盛は喉に泌みた。

宮良高夫・宮良長方の名コンビによる“なんた浜”は眼下にある。しかし、昔は千鳥が夜の浜辺に鳴いた面影は今はない。セメントで固められた護岸だけだ。与那国には火葬場が無い。それは今も昔と変わらない。しかし、億単位の墓があって、其処は観光地にもなっていると聞く。

私が知る限りでは久部良の“南泉”(長浜酒屋)以外は製麹・蒸留は共同だった。租内のふく木に固まれた屋敷内にはトタン葺きの長屋が3つに仕切られ、各々施錠をされていた。

沖縄本島や宮古、石垣島が簡便式製麹機のはしりの頃だった。モロミが熟した所から順に1つの蒸溜器で醸していくという便利さがあるわけだ。蒸留した酒は各自に持ち帰って消費者に計り売られていた。銘柄は“南泉”“稲穂”“どなん”であった。

ところで、この「入福旅館」、この原稿を書きながら電話をかけてみた。受話器の向こうの声は若々しいどなんの女性であった。おかみさんは50代に入ったばかりの3代目で、開業100年になる老舗である。

入福とは姓である。店もだいぶ様変わりしたであろう。当時は、風呂場も屋外のゆうなの木の下であった。そこに相部屋だった大学生の「久留比」という大阪の人間だが、ウチナンチュー以上に色の黒い男だった。「なんで与那国まで来たんだ」と聞くと、「自分は昆虫を探してあちこちを歩き回っているが、ここ与那国の“蛾(が)”は日本はおろか世界一(?)大きいので有名だ」というのであった。

沖縄ヘ帰る時、「南泉」「稲穂」「どなん」の633ml瓶詰めを各2本ずつわら縄で束ねて空港までひっかついで行こうと旅館を出る時、自分が持つからと言って引き受けてくれた。ティンダバナを左手に空港までの道程は並みの遠さではない。途中何度か小休止したが、久留比君の額からは彼が顔をしかめるくらい汗が出ていた。

与那国の蛾は高くついたわけだ。私の酒棚にすまし顔で、さも何事も無かったかのような6本の瓶詰めには、持ち主の苦労は知る由も無い。首を長くして母と一緒におみやげを待っていた次女の由美も夭折(ようせつ)してしまった。

当時、私の家は那覇市の真嘉比にあって、一家6人で6畳1間に住んでいたのであるが、おカネも無いくせに義弟が銀行に勤めていたのでオール借金で鉄筋スラブにふきかえした時期であった。

空港で挨拶のつもりで「今度沖縄に来る時にはうちに電話しなさい」と言ったのだが、後日電話があって迎えに行ったら、なんと4人もの友達を引き連れて来たのには閉口した。借金払いでフーフー言っている毎日の生活である。家内の顔がいよいよゆがんできた。

家族が食べるモノさえ無い時にである。おそらくどこかから借金してきたのであろう。それなりのごちそうをこしらえて家内はもてなしていた。ところがこの4人、新築の我が家に1晩泊まると言うのである。文字通りハタ迷惑な話であったが、そこは与那国での泡盛のこともあって泊めることにした。後年、彼、久留比君から手紙が届いた。「卒業後、大阪市の衛生課に勤めました」とあった。今もって時として、家内と2人して笑い話にしているのであるが。

今でこそ「ホワイトハウス」もある与那国島も、30年余も前までは道路もせまく、でこぼこだらけの離島であった。いったい、あのマジムンはどうしたであろうか。それにしても30余年も前に運んできた「どなん」の633ml瓶詰めたち、さぞうまいクース(古酒)に育っているだろう。今宵あたり封を切って昔日を偲んでみるか。

ユナグニヌシケヤ ユナグニシヨンカネー を歌いながら・・・。

2006年2月号掲載

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