30年余で22工場が廃業~洋酒に負けた一因は泡盛にも~

   

戦前戦後を通じて初めて琉球泡盛をラジオで宣伝したのは瑞穂酒造である。勿論テレビもそうだが、テレビは瑞泉酒造が最初であった。awamori_yomoyama_82_awamori-syuzousyo-going-out-of-business-story_prologue“歌や首里節(すいぶし)、酒や瑞穂酒(みずふじやき)、昔(ん)から今(なま)に定(さだ)みやゆぎ”。三線で奏でる琉球古典の余韻荘重さはうっとりとさせたものである。そして琉球泡盛が欲しくなってきた。

或る日取材で国頭村浜の「ヨ」泡盛でおなじみだった輿儀酒造所を訪ねた時、そこの女代表者がつくづく言ったものである。

「この三線を聞くと泡盛が飲みたくなるでしょうね仲村さん」

相手は同業者であり、いうなればテキである。今でも時としてそうだが、30年余も前はすごくそういう意識があった。テキをして感激させ得るだけの魅力を秘していた曲だったわけだ。

片やテレビで放映した瑞泉酒造は首里人の与那覇政牛さんを活用した。寒川の坂道、昔あった琉大の女子寮の前あたりを杖を片手に立ち止まり、振り向いて那覇の街を見渡す構図であった。そのいずれも首里にふさわしい風景ではあった。敗戦後、琉球泡盛の夜明けの光景を見る思いであった。

その琉球泡盛の変遷を本島北部から順に見てくると、現在46製造業1協同組合だが30余年前までは68場あった。つまり30年余の間に22工場が廃業に追いやられてしまったことになる。

小さな島で“戦争”に敗れ去ってしまったわけだ。輸入ウイスキーやヤマト、諸外国からのいろんな酒類に敗れた第一の大きな原因は、泡盛自体にもあった、といえる。敗戦でモノが無く原料となる米はおろか粟や芋も無かった。

従って輸入ザラメや芋などを原料に造っていて、原料が雑で、杜氏も未熟者であった。生まれて来る酒も即販売された。その味たるや苦くて辛く、我々金のない貧乏者たちは5セントの県産コーラやジュースで割って飲んだものである。そして酔っぱらって憂さを晴らした。従って味で他酒類には遠く及ばなかった。

さて、ラジオやテレビの話は後稿におき、ここでは製造業者の浮沈について書いてみたい。先ず国頭村にあった「黄金乃露」の宜名真酒造所、字浜の「ヨ」泡盛輿儀酒造所、大宜味村の「梅酒」大城酒造所、本部町にあった「琉華」「石川宗正」の石川酒造所、名護の「轟」名護酒造所、「丸盛」宮里酒造所とざっと6場の泡盛業者が北部だけで姿を消している。

中部では勝連町平安名の徳原酒造所、勝連町与那城の松井酒造所、与那城村安慶名の中里酒造所の3場であった。長嶺進得沖縄国税事務所元間税課長、元沖縄県酒造協同組合専務の話によると、これ等は1960年頃まで営業をしていたということだ。

糸満には「玉福」玉福酒造所、崎山酒造所の2場。それに最も多かった宮古、それに八重山でもだいぶ姿を消していった。これ等は小紙(醸界飲料新聞)が発行して間もない頃、即ち1967~8年頃のことだから、今から37~8年前の話である。

それ以前の事については佐久本政敦さんの「泡盛とともに」の著書に詳しい。本島北部から中、南部、宮古、八重山、与那国までの当時の業者個々を訪ね歩き取材した頃の思い出はたくさんある。

次号から数回にわたって、いろんなエピソードを織りまぜながら当時の苦楽を紹介していきたい。

38年前の泡盛製造業者にはいろんな人々が居た。そしてその殆どの方々が黄泉の人となってしまった。皆各々に個性的であった。激論もしたし、飲み明かしもした。教えられたし叱られもした。

自分はウイスキーを飲みながら“どうしたら泡盛が売れるんだろう”と言ってのける豪者や、ひたすら泡盛研究に打ち込む根っからの造り人も居た。遠い昔の思い出として、脳裡を去来する昨今である。

【2006年1月号に続く】

2005年12月号掲載

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