飄飄(ひょうひょう)として自然に逆らわず~辻町で飲み乍ら政良(せいりょう)氏消ゆ~

   

渓雲起って 日は首里城に沈み 風楼に満ちて 鐘の音万里に響く 泡盛の美酒夜光のに和すれば 忽焉(こつえん)として復酔う

awamori_yomoyama_50_sakimoto_syuzou_sakumoto_seiryou_dangi通称トゥンジムイこと那覇市首里鳥堀町は首里3カ、つまり崎山、赤田の北東に位置する集落で戦前泡盛製造業者が最も多く存在した地域である。

そこに唯一健在なのが咲元酒造合資会社(佐久本政雄社長)である。〝まほろばの里 古都首里の酒蔵″と書かれた入口の看板が目印だ。蔵は決して大きな規模ではない。

が、今年で創業102年と歴史は古い。初代が政明という方で2代目が政良さん(昭和62年9月20日92歳で没)である。

寡黙な人で決して人様より前には進んで話をするタイプではなかった。

しかし、話には1本筋の通った頑固さがあった。それを如実に物語っているのが小紙の創刊1周年記念の座談会にご出席願った時の発言に表われている。

今から33年も前の記事である。

その頃、郷土の月刊誌「青い海」の確か創刊10周年記念号に私が「琉球泡盛に熱い愛の口づけを!」という見出しで一文を寄せた。

後日咲元酒造を訪ねた時、政良おやじが満面に笑みを浮かべて迎えてくれた。

「仲村君、あの文章を何べんもくり返し読んだよ」

と仰言ってくれた。泡盛がどん底で喘いでいる時期であった。

この政良さんにはこんなエピソードがある。戦前、辻遊郭で友人仲間で飲んでいる時、政良さんがいつの間にか居なくなった。

仲間たちは政良君もなかなかやるもんだ、と口ぐちに笑いながら雑談を楽しんでいた。と、小1時間も経った頃、政良さんが戻って来た。そしてさあ飲み直そうや、と言ったのである。

みんなはクスクスと含み笑いしながら政良さんに目線を注いでいるのである。ひと口飲み干した政良さんの口をついて出た言葉は

「実はこうじが気になってね、その手入れをしてきたんだよ」

今までひやかしていた友人達はシュンとしてしまった、という。政良さんは根っからの首里蔵人だったのである。

昭和46年4月29日付政府の春の叙勲で政良さんが泡盛業界では初の叙勲5等を受賞している。その時の小紙のインタビューで氏はこう語っている。

「泡盛づくりを始めてから50年になります。大正7年に兵隊にとられ除隊後又すぐ泡盛作りにもどった訳です。父が病弱だったものですからね。趣味は何かとよく人にきかれるんですが、私は酒づくり以外にないと答えています。人間はちっ居すると健康によくないので、これからの余生を酒造りに邁進していきたいと思います」

工場入口の1番目につきやすい場所にタイの本南ばん1斗壷が置かれていた。

その肩には丸い穴が開いていた。明らかに銃弾痕であった。物言わぬ壷が去る大戦では琉球泡盛も1大被害者だということを如実に物語っていた。

「泡盛草」という植物があるということを教えて下さったのも政良おやじである。

弱弱しくて可憐なこの鉢植えの植物が、いつもテーブルの上に置かれ来客の目を楽しませていた。

時として工場隣りの2階の喫茶店に誘って下さり泡盛談議をしたものである。物静かで語り口もおだやかだったが、いっぽうで芯の強い所があった。

私が多くを学んだ首里酒蔵元の大先輩は政良さんと石川逢篤さん、花城清用さんのお三方である。3代目現社長の政雄さんは二男である。

飄飄として自然に逆らわず、水の流れるが如く実に酒造りを楽しんでいるのが政雄さんである。

蔵人でありながら詩人である。
冒頭の漢詩は氏の作品だ。  

〔2003年3月号に続く〕

2003年2月号掲載

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